「現実を疑う」という事は、「今」、現実に即して採用してしまっている
「○○な私」から外れようとすることだ。そこを意識する事だ。
そういう意味では自己観察と連動してると言っていい。
そして、あなたが今なっている不都合な「○○な私」を一つでも多く外すということだ。
さらに言えば、おそらくその不都合な事というのは、未来に影響する事ではないかな?
なので、本当はあなたがやっているのは、その過去にリアリティを与える事ではなく、
その過去に基づいて「この後こういう事が起こるのではないか」「こういう状態になるのではないか」
という事に、未来にリアリティを与えようとしているのではないかな。
だから、アラームが鳴るわけだ。それを信じるんじゃないよ、と。
本当は、その感情が小さいうちにやって欲しいのだが、もう完全に現実としてリアリティを
与えてしまったと、「間違いなくそうなる」と確信している場合は、当然強いネガティブな感情がくる。
完全にその「○○な私」から外れられない状態だ。
そういう時は「感情」を感じる、という対処になる。
「感情」を感じるは、108さんの胸のあたりでただ思考を働かせずに感じる、もしくはまさに
あなたが信じようとしていることをそのままアファーメーションにして感じる。
「この後、絶対こうなると思います」と。
あなたがリアリティを与えているんだ、という事を意識して感じる。
「俺はこう信じているんだぞ」と。こうする事で、そのあなたにとっての
絶対的な現実と少し距離を置けるだけの余地が生じてくる。
まぁ、急にすぐ、現実感を取り除けるとは俺も思ってない。
最初は感情の浮き沈みを感じるだろう。
>「疑う」って現実を生きてる身からすると「何か怪しい・違うかも」と感じるからすると思うんですが、
>確実だ!絶対だ!と思っていることを疑おうとするのって難しいです。
まずこの「現実を生きている身からすると」っていうトコを薄めてってほしいんだよ。
現実があって、それとは別のスピリチュアルがある、みたいな。
「現実を疑う」というのは、あらゆる意味で疑うという事なんだ。
あなたが家にいる、会社にいる、パソコンをしている、という事自体。もっとトータルに。
「俺は現実を生きてるけど、その記憶だけ疑おう、明日これが起こるかもって事だけ疑おう」じゃなくて。
「現実を生きている」っていう部分に強くリアリティを持たせると、
当然その現実内で起こるらしきものもリアリティを持たせざるをえないんだよ。
だからもっとトータルで疑う、「目の前に人がいるけど、全然違うのかも」
「今電車にのってるフリしてるけど、全然違うのかも」という風に。
そしてこの、>「何か怪しい・違うかも」と感じるから疑うという部分に関しては
4.信じると疑うの相対性を参照。「何か違うと感じるから疑う」っていうのは
まさにあなたが持たせているリアリティに素直に従ったっていうだけだ。
つまり自分のリアリティを変化させる気はないという事だ。
その当然と思えるリアリティ自体に対してニュートラルな立場をとる事が「疑う」ということだといってもいい。
まぁまだイマイチ伝わらないかもしれないけどね。それは俺の表現力の問題でもあるしね。
でも、あなたは、
「揺らぐどころか強化される感じがします」
「疑うフリみたいになってしまいます」
という風に正確に感じられているわけだから、そこを指針にすればいい。
たとえ頭の中が整理できなかったとしても、そのあなたが感じてるものは正確だ。
そこをどうやって楽な感じに、解放された感じにしようかな、というのがポイントだ。
つまり、理解なしでも感じ方に敏感になれば幸せに向かっていけるという事だ。