「魂」と「理性」の一致へ
「魂」は無邪気に小さな両手を差し出しながら、この世界に降りてきた。
しかし、世界は「振り子」に乗っ取られ、無情のジャングルに変えられていたのであった。
「魂」にとっての選択肢は、「振り子」に押しつけられた道をうつむいてとぼとぼ歩くか、または、自分のものを得ようと向こう見ずにもがくか、どちらかひとつしかなさそうだ。
人の「理性」は、精神面でも、感情面でも、エネルギー面でも、すべてにおいて「振り子」に乗っ取られている。
「理性」は夢をどうすれば実現できるか想像がつかず、自分の世界の層にそれを入れようとしない。
人生ではあらゆることが理論的で理解可能なものでなくてはならないからだ。
人は合理的な世界観を揺るぎない法則として間違って理解している。
けれども、この法則はインチキであり、たたき壊すことができるのだ。
私たちの人生ではしばしば説明のつかない奇跡が起こる。
奇跡のうちのひとつくらいは自分の人生で起こってもよいのにと、なぜ思わないのだろう。
「魂」が欲することを、思い切って所有しようとするだけでよいのだ。
思い切って「所有しよう」とすることは、願望が実現するための主な条件なのだ。
あなたにとって達成困難か非現実的と思われることはすべて実際に達成困難で非現実的なのだ。これは明白なことだ。
しかし、幸福の秘訣は、不幸の秘訣と同様、簡単なものだ。
すべては「魂」と「理性」が一致するか、対立するかということにある。
つねに「理性」は手段について、つまりどのように行動すべきかについて考えている。
その一方で、「魂」は考えない。
「魂」は所有する準備が無条件にできている。
「理性」も所有する準備はできているが、理解可能で理屈に合っていれば、という条件つきである。
「魂」と「理性」の不一致は、「理性」が目的達成の現実性を疑っている点のみにある。
コントロールしようとして握りしめていたものを緩めるや否や、「理性」が突きつけている条件が消え失せて、「魂」と「理性」の一致が起こる。
「理性」のコントロールなど要らないという事実に直面した「理性」は驚く。
すべてがひとりでに行われてしまうからだ。
「魂」と「理性」が一致した状態では、「魂」はうきうきし、「理性」は満足そうに揉み手をする。
正しい決定は、「魂」と「理性」が一致する際に生まれる。
決定が正しくないときの単純明快な基準となるのは、「魂」の不快である。
もし、決定を下す際に、「魂」の不快というものを感じなかったのであれば、それは「魂」が「はい」と言っているか、または「わからない」と言っているのだ。
その場合の最終決定は、あなたの「理性」に委ねられる。
「魂」と「理性」の一致を達成するためには、それを何で達成すべきか、つまり自分の目的を何にするのかまず特定する必要がある。
*
あなたの目的と扉
もしあなたに決まった目的がないか、何も欲していないというなら、あなたのエネルギーが少ないか、あなたの「理性」が「魂」を箱の中に完全に閉じ込めたかのどちらかだ。
「魂」が何もしたくないということはあり得ない。
この人生は、「魂」にとってまたとないチャンスだからだ。
人生とは、あなたが誰かに奉仕するためにあるのではなく、ひとりの個人として自分を実現するためにある。
自分についてあれこれと気を遣い、同情と思いやりの気持ちで自分に接しよう。
そうすれば「魂」は温まり、凍えた翼を伸ばすだろう。
もし自分を説得しなくてはならないのなら、それは他人のものだ。
もしそれがあなたのものならば、自分を説得する必要はない。
他人の目的に向かうことは、いつも自分自身への暴力であり、強制であり、義務である。
もしあなたの目的と思うものの中に、たとえほんの少しでも強制力を感じるのであれば、勇気を持ってその目的とは縁を切ろう。
他人の目的は、あなたが他人の幸せに貢献するものでしかない。
もし目的があなたの人生に好転をもたらさなければ、その目的はあなたのものではないことになる。
本当の目的は、いつもあなたのため、あなたの幸福や成功のために作用するものだ。
もしその目的が他人の求めるものを満足させるためや他人の幸福に貢献するために"直接"役立っているのであれば、その目的は他人のものということになる。
私たちは何よりもまず自分のために生きているのであって、誰に対しても何の義務も借りもないということを覚えておくべきだ。
「他人の目的」へと進んでいる道の途中では、あなたの「魂」はいつも「嫌だよ」と言い、「理性」は「必要なのだ」と繰り返す。
そんな状態から抜け出す方法はただひとつ。
「自分の目的」を見つけ出して、それに向かって進むこと。
それまでの間、義務感や必要性に苦しむことになったときにはごっこ感覚やゲーム感覚でよいのだとイメージしてみよう。
やり遂げなくてはならない仕事にひたすら打ち込むことはやめ、少し距離を置いて行動し、自分をリースに出そう。
真に壮大な成功を手にするためには、「自分の目的」を定め、誰の言うことも聞かず、目的に向かって休むことなく進む必要がある。
目的について考えるときは、その格式の高さや近寄り難さ、それに達成手段を考えず、「魂」の快・不快だけに注意をはらおう。
すでにあなたは目的を達成し、すべては過去のことになったと想像してみよう。
気分はどうだろうか。良いか、悪いか?
他人の目的は「魂」の不快を引き起こす。
目的が魅力的であるにもかかわらず、あなたのどこかが重苦しく感じられるのであれば、自分に正直になる必要がある。
目的とは、「あなたは人生から何を欲しているか?どんなことがあなたの人生を喜びにあふれた幸せなものとするのか?」という質問に答えるものでなくてはならない。
一番大事な目的をひとつ見つけていただきたい。
その目的が達成されれば、残るすべての願望も達成されるだろう。
もしあなたの扉を通って、あなたの目的に向かって進む場合に、あなたが手に入れられるものと比べたら、今のあなたの欲求はどれほど控えめなことか、想像すらできないだろう。
もし目的の達成が難しいのであれば、それを断念して、しばらく自分を観察してみよう。
もしほっと安堵するのならば、それは他人の目的だったことになる。
もし憤慨や抗議といったような感情を覚えるならば、その目的はあなたのものかもしれない。
目的達成に関わる問題は何もない。
問題なのは、あなたの目的と扉を見つけることだけなのだ。
*
あなたの目的を見つける方法
あなたの目的を見つける方法がひとつだけある。
それは、「重要性」を振りはらい、「振り子」との関係を断ち、自分の「魂」に注目することだ。
誰よりもまず自分を愛し、自分のことについて第一に心配するのだ。
あなたの目的へと続く道を見つけるには、この方法しかない。
目的を選ぶ際に、唯一頼りにしてよい規準は、「魂」の不快である。
目的が達成困難であるという固定観念は、最も執念深いので、忍耐が必要だ。
「理性」は、「これをどうやって達成するのか?」という質問にすり替えようとするだろう。
さあここで、あなたの「魂」から「理性」にこう言ってもらおう。
「黙れ、それはお前さんが心配することじゃない。」
分析や思索によって目的を決めることはできない。
分析や思索は「理性」の活動である。
本当の目的を見分けられるのは、あなたの「魂」だけだ。
自分の目的を選択するという問題で決して悩んではいけない。
「理性」を選択に参加させてはならない。なぜなら、「理性」とそれによる「思考」は本当のあなたではないからだ。
それは、「振り子」からの攻撃による影響を受けているのだ。
100%の保障つきで目的を達成できる場合がひとつだけある。
目的があなたのもので、あなたが自分の扉を通ってそれに向かう場合だ。
この場合は、誰からも何からも邪魔されない。
もし人が自分の扉を通って自分の目的に向かって進んでいるのなら、最小限の障害にしか遭遇せず、すべての状況が自分に有利になるよう展開する。
そうではなく、もし人が自分の道からそれたとしたら、その人にはありとあらゆる困難が襲いかかり、人生は生存を賭けた闘いの連続に変わる。
「魂」にとって、それは本当の悲劇である。
「魂」は、「振り子」に熱を上げた「理性」が人生を台無しにする様子を眺めているが、自分では何も変えることはできない。
「理性」はこの世界にやってきても、何をするべきか、何が欲しいか、何に向かって行けばよいか、はっきりとは知らない。
そこで「振り子」たちは、非常に説得力のある固定観念をたくみに作り上げ、「理性」に他人の目的を選ばせるように仕向ける。
自分本来の道からはずれてしまうと、人は幸福をつかもうとして山のような障害を乗り越えるしかなくなる。
しかし、他人の人生ラインでは、どんな幸せも待ってはいない。
障害を乗り越えた先に、幸せは待っていない。
幸せは、現在いる人生ライン上の「今ここ」にあるか、それともまったくないかの、どちらかなのだ。
幸せは、自分の扉を通って自分の目的へと進んでいるときにやってくる。
もし人が自分の人生ライン上、つまり自分の道の上にいるのであれば、たとえ目的はまだ先にあろうとも、今すでに幸せを味わっている。
そして目的が達成されたら、喜びは一段と大きくなることだろう。
自分の目的へと向かうことそのものがすでに毎日を祝日に変えてくれる。
他人の目的へと向かうことは、いつも祝日をまぼろしの未来に預けておくことになる。
他人の目的の達成は、幸せではなく、絶望か無力感しかもたらしはしない。
あなたの目的は、あなたに本当の喜びをもたらす。
それは一時的な満足感をもたらすものではなく、人生の喜びという感覚をもたらすものだ。
あなたはその道の途中で興奮とインスピレーションを感じる。
あなたの目的も何らかの「振り子」に属している。
しかし、目的が本物であるかぎりは、あなたにとって「振り子」に属することに何の恐れもないはずだ。
大事なのは、選択の自由という自分の権利を行使し、「振り子」から支配されないようにすることにある。
あなたは偽りの固定観念を打ち破り、目的の達成が一見難しそうに見えるのに、思い切って目的を達成することを自分に認めてあげるのだ。
だからこそ、あなたの目の前で、今までずっと閉じていた扉が大きく開く。
ここまできてついに「理性」は、目的が実際に到達可能であることに気づく。
これで人生はお祭りとなる。
*