別の領域では「無でありすべて」と書きました。
「ない」と同時に「ある」が矛盾なく存在します。
すべての潜在的可能性が、生じることも滅することもなく遍在しています。
「欲しい(ない)」と思ったと同時に「ある」ので「願望=実現」です。
そしてこの現象の世界では「ない」と「ある」は対立します。
わかりにくい説明ですが、
まずひとつの点が存在する(ないと同時にある)
↓
その点を引き伸ばして一本の線が出来たとき、「ない」と「ある」の相対する極が生まれた「ない」と同時に「ある」が成立しないので、二極を結ぶ線のプロセス(「ない」→「ある」)になります。
「ある」を体験するには、「ない」と認定することで「手に入れる」プロセスを経る必要があります。
ということは「ある」ことが前提でないと、「ない」という認定自体がが出来ないことになります。
私たちが現状を見て「ない」と思うのは、「ある」が真実だからその真実を否定している「ない」を認識出来るのであって、本当に存在しないものは、「ない」という自覚すら出来ないのです。
現実世界は、別の領域での自分の内部表現が、肉体を通して目の前にそのまま投影されて展開されているのですが、
遍在する可能性の中から欲しいものや状況を形作ったとき、(こういうものが欲しいと思ったとき)目の前の空間にそれは実際にあるはずなのです。
具体的に書いてみます。
何かを欲したとき例えば「優しくて2~3才年上のイケメン彼氏が欲しい」みたいな実際には存在を確認できていないものを欲する場合と、
既に存在はするけれど他人の所有物だったり、お店で売ってはいるけれど金額的に手に入れるのが難しいと感じるものだったり、
供給数が少なすぎて手に入れることが困難なように思えるものだったり・・・といろんなケースがあると思います。
これを「ないと同時にある」という話からすると、どんな願望であれ「欲しい」という意識が私の中で生まれたとき、
既にそれらは実現されている(願望も実現も投影されている)ということです。
実際に優しくて2~3才年上のイケメン彼氏と付き合ってるし、欲しいと思った物や人、状況はすべて自分のものになっています。
それらの場合の「まだ現れていない」「他人の所有物だ」「お金がないので手に入れられない」「数が少ないので手に入れるのは困難」
などの、それが実現していないように見える理由はすべて、
「既にある」ものを「ない」と認定するために幻想を見ているだけということになります。
チケット7章でのパンのハナシを思い出して欲しいんですが、
既に自分のパンとして目の前にあるのに、「自分のものではない」と認定して「手に入れる」ために何かをしなくてはいけない
と思い込んで現実を見ているので、「他人のもの」「手に入れるのが困難」な現象として目の前に展開しているのです。
ではこの「ない」という認定をどうすればいいのかということになるんですが、
この現象世界ではこの「既にある」が瞬時に自分のものとして起こることは通常ほとんどありません。
この現実世界で生きるための基本ルールとして選んでるフィルターがあります。
肉体があって椅子に座って机やキーボードを触れたり画面の文字が読めているのも、
そういった地球的な物理法則を採用しているから出来ることですが、
実際にはただの電気信号をそのように脳で処理しているだけのことです。
このフィルターは自己防衛本能に大きくかかわっているので、
「既にある」が「ない」ようにしか見えないのは当然のことです。
例えば「ケーキが食べたい」と思った瞬間、空間からケーキが出現したり、見知らぬ人からプレゼントされたりしたとして、
すんなり受け取ることは難しいと思うし、デドコロ不明なケーキを口に入れるのも勇気がいると思います。
ちょっと思いついただけのことが時系列を無視してすぐに実現すると、人間として生きるうえでかなり支障があると思います。
なので欲しいものが出現したときに、空中から突然物質化するのを目撃することは殆どないと思います。
たいていは時間や所有という概念を使って、観念が受け入れやすい自然な形で現れます。
「自分のものではなかったが手に入った」とか「いつの間にか自分のものになっていた」という形です。
「既にある」を実感できるようになると、「自分のものではない」として見えてる現実が、
本当は自分のものであるけれど、現実という二元世界での便宜上
他人のものなり入手困難なものとして現れてるだけだということがわかっているので、渇望するということが出来なくなります。
当然ですが、他人のものを勝手に自分のものだと思い込んで満足しているだけだとしたら、思い込みの激しいイタイヒトなだけです。
そうではなく、実際に客観的事実として自分のものになるということです。
ただ、自分のものになるまでに、二元世界の性質上必要なプロセスがあるけれど、
放っておけば自分のものとしてやってくるのが当たり前なので、何もする必要がないことがわかっているのです。
私たちは今まで、この現象世界しか認識できていなかったので、「便宜上、自分のものではない状況」として現れているだけなのに、
その現象を、固定された状況で変えることは難しい事実だというように捉えてしまっていて、
「ない」ということがものすごく苦しく感じるし、手に入れるためにいろんなことをしなければならないと思い込んでいます。
そして手に入れようと試行錯誤することで余計に事態をややこしくしてるだけなのです。
認識が変更されると、同じ現象を見ても違うように見えるというのはこういうことです。
「他人のもの」として見える現実が、ただの途中経過に過ぎないと見えるか、
他人から何とかして自分のものにするために何かをしなくてはいけないようにで見えるかの違いです。
そういう意味で、起きている現実に対してどう捉えるかがこの先に起こることを変えていくというのは本当のことです。
ただそれは、ポジティブに捉えていれば叶わなくても満足できるでしょテキな精神論ではありません。
それで心底安心して満足できるならいいのですが、そうでない場合は蓋になることもあります。
なので、別の領域に浸って信頼を高めることで認識を変えたほうが楽だし間違いにくいと思いました。
別の領域が主体のとき、わざわざポジティブを心がけて思考の調整をしなくても、そのようにしか思えないということです。
「既にある」がわかるまで「既にある」を適用できないという観念を持ってるカタが多いと思うんですが、
ある事にこだわりすぎるとないという否定が強くなってしまうので、わからないけど既にあるを適用してみよう
既にあるとして世の中を見てみよう。こう思うことで理解しようとする思考のループを切ることができます。
ですので、私のハナシはそんなものかぁ、くらいでいいので、自分自身の別の領域を信頼してみてください。
*
別の領域で感じる「無」にはすべてが含まれているんですが、
その「無」であり「すべて」というのは、実は本当の自分のことです。
別の領域では「何も起こってない」とか「既にある」とか「愛」「無限」「完璧」・・・なわけですが、
そこは絶対性の世界で、そこで全部完結してしまっているので、創造のプロセス(願望→実現)というものが存在しません。
だからここは「願望=実現」の領域なのです。
で、「本当の自分」は、その創造のプロセスを体験してみたくて
「私」という個人意識のフィルターを使って相対性(分離)の世界を体験することにしたわけです。
この「本当の自分」が海で、「私」が波ということになります。
すべては幻想で、実際は何も起きていないけれど、フィルターを通すと様々な出来事が起きているかのように見え、
そして実際にはすべてがあるけれど、フィルターを通すと何かが「足りない」ように見えます。
そうでないと、出来事を体験したり、なにかを得たりする経験ができないからです。
なので私たちがそれぞれ体験している世界というのは、
「何も起きていない実相」を「私」というフィルターを通して投影したそれぞれオリジナルの世界です。
だから「私=世界」になるんです。
私たちは、この「私」というそれぞれの個人意識を通して見る世界を知りたくて、
「○○(丸々)(個人名)という人間として生きている」というフィルターを装着しました。
このフィルターというのは観念のことで、人それぞれにオリジナルのフィルターをたくさんつけています。
私たちは長年肉体が自分自身だと思っていたので、自分の体が気に入らないと思ったり、
起きてるように見える出来事を体験して、多くの場合は苦しんだりしてきたわけですが、
「本当の自分」から観ると、そのプロセスを経験することは喜びだったりします。
退屈なストーリーよりも、悲劇的で複雑なストーリーのほうが面白いという感覚です。
エゴはそのことを知らないので、「もっと違う体がよかった」とか「環境を変えたい」と思って、
投影の現れである現実の中で、あれこれ試行錯誤し続けてきたんですが、もう投影されてしまった結果を変えようとすると、
そこは分離の世界なので、「ダイエットしなきゃきれいになれない」とか「丸々するにはもっとお金が必要だ」とか、
さらに分離に基づいたフィルターを増やし続けるしかなかったんです。
「○○(丸々)が欲しい」と思うことは、「○○(丸々)がない」というフィルターを通して世界を見ているんだけど、
さらに「○○(丸々)を手に入れるためにはなになにをしなくては」というフィルターを追加して、どんどん制限を増やしているだけです。
それらのフィルターを外していけば、「既にある」ように世界が見えてくるよってことで、リリースしようとするんだけど、
結局、分離にいながら分離から抜け出ようとすることになるので、
それがまた「観念をリリースできなきゃ○○(丸々)は手にはいらない」という新たなフィルターになることも多くて、停滞してしまう。
日常の中で、お金を支払うときに「これ買って後で困らないかな」と思ったり、
ケーキを食べた後に後悔してしまったり、顔を見ただけでムカつく奴がいたり。
自分にとって当たり前になりすぎてると気づきにくいかもしれないけど、
たいてい同じシチュエーションを体験するときは、思考プログラムが起動して自動的に思考が再生されています。
そしてその自動再生された思考に反応して、感情では「この環境のせいで不快なんだ」と感じています。
だから不快な感情やよくない思考をしていると、その通りの嫌な現実が起きてくるよというのは正確ではなくて
元々そういう体験をしたくてそのフィルターを選んたのに、エゴではそれを体験したくないと否定してしまうので、
それは完了されずに再配達されて、何度も繰り返してしまうんです。
ここでその不快な感情を感じつくすことで体験を完了させることができると、
「本当の自分」はもうそのフィルターに興味がなくなるので、それは消えていきます。
すると、同じ場面でも不快な感情を感じなくなるし、出来事自体も変化してきます。
で、この方法とは違う方法で、リリースしなくても別の領域で気づいていれば自然と消えるよといっているのは、
別の領域は、「私」というフィルターをつける以前の領域だからです。
分離する前の、すべてである領域です。
「気づいた時点で消える」という表現は、他にどう表現したらいいかわからないんですけど、
「手放そう」とか「消そう」とか「ナニナニしよう」とするような性質のものではないという意味で使用しました。
別の領域では「~~しよう」とすることはできないので。
そこに留まっていると、段々、自分が今まで自分だと思っていた分離の思考が、自分のものではないということがわかってきます。
そして、体験するフィルターを選べる立場である「本当の自分」であることがわかってきます。
なので、「現状を受け入れろ」といわれているのは、「現状で我慢しろ」という意味ではなくて、
「この現状は、『本当の自分』が体験したくて選んだんだ」ということを受け入れろという意味です。
自分が体験したくて選んだんだということを受け入れられなければ、自分が体験を選べる立場であることを否定していることになるので、
エゴのなかで制限された体験しかできません。
だから今の肉体も、周りの環境も、本当は自分で選んだんだと認めて受け入れるんです。
現実は自分が選んだとおりの完璧な結果だということを受け入れていると、起きているすべてのことが愛おしく思えてきます。
エゴから見れば不足を感じる現実だとしても、もう現実の中で格闘する必要がないことがわかるし、
「本当の自分」という立場に立てば、すべては愛からだったということがわかるからです。
そしてもちろん、自分の望む現実が選べるということがわかるからです。
ずっと分離されてたと思っていたので、別の領域に気づいたからといってすぐさま何もかもが変わるわけではないです。
今までのエゴの習性がすっかりなくなるわけでもないです。
「問題」によっては簡単に解除されるものもあれば、時間がかかるものもあると思います。
人それぞれつけてるフィルターが違うので、「本当の自分」を信頼できるようになるまでには個人差があると思います。
この世界で生きることを選択している限り、個人意識を完全になくすことは難しいし、
まだまだ個人として楽しみたいこともたくさんあると思うので、なくす必要もないのだけど、
個人でありながら、世界であるためには、別の領域で自分を観ている存在でいることなんです。
エゴが出てきても気づいていればいいんです。
気づいている=本当の自分に意識をおいているということは、エゴにはなんの力もありません。
何か起きているように見えるのは、自分を深く知るためにそう見えてるだけで、実際はそれも愛なんだと思います。
なのでエゴが出てきても焦らないでいいですし、ときにはエゴに巻き込まれることがあっても、
「あー今巻き込まれてたわ。まだ人間だから仕方ないよね。でも私はエゴじゃなくて別の領域の感覚を信頼するわ」
と再確認するようなかんじでいいんじゃないかなと思います。
思考停止は私もあまり長くできないです。
どうでもいいような雑念が沸いてくるときは、無理にとめようとしないで、その思考に捕らわれないように流していくような感じです。
毎回出てくるような自動思考なんかは「またプログラムか。」ってかんじでバサッと効果音つきで削除する場合もあります。
あと強い感情を伴うような思考だったら、離れた位置から眺めてる感じです。