「所有し行動する」決意
「願望」とは、目的そのものに注意を集中することだ。
「願望」は、何の力も持っていない。
目的についてどれだけ思おうが、目的をどれほど望もうが、何も変わらない。
「願望」はいつも「過剰ポテンシャル」を産み出す。
「願望」自体がすでに「過剰ポテンシャル」なのだと定義づけられる。
欲しい思いが強ければ強いほど、手に入るものは減ってしまう。
目的が大事であればあるほど達成はますます困難になる。
「願望」は役に立たないどころか、邪魔をするだけなのだ。
願望は、意義や依存性の「過剰ポテンシャル」から解放された「純粋な意図」に変わったときにのみ実現される。
「純粋な意図」は決して「過剰ポテンシャル」を産み出さない。
意図とは、すでにすべてが決定されたということを前提としている。
つまり、「私はそうなることをただ単に決めてしまった。それはほぼ成し遂げられた事実なのだ」というように。
それは、そうなるだろうということの穏やかな認識である。
願望をいだくことなく、欲しいと思い、行動することが必要だ。
そうなるためには、「重要性」を引き下げることが必要である。
まるで郵便受けから葉書を取ってくるような気持ちで、あなたは自分の目的へ向かわなければならない。
目標を達成するために、「自信」も闘いも必要ない。
「自信」とは、単なる一時的な過剰ポテンシャルにすぎない。
自信のなさというのは悪循環をもたらす。
「重要性」と「願望」が強ければ強いほど、自信のなさも強まる。
自分自身や状況をコントロールしようと強く握りしめれば握りしめるほど、それだけ精神の拘束状態は強まる。
不安や心配が大きければ大きいほど、より早い時期に現実となる。
あなたが自らを重要人物だと感じると、皆にそのことを証明しようとする欲求が生じ、過剰ポテンシャルが発生する。
周りにいる人々に弁明することをやめよう。
弁明は、自分のふるまいを説明する必要が本当にある、やむを得ない場合に限って行うことにしよう。
闘う必要はない。
ただ悠然と進み、自分の目標を達成するだけだ。
私たちがしばしば目的を達成できないのは、根気強く目的に向かおうとしないからだ。
人はすぐに気持ちが冷め、自分の望みを見込みがないものとしてあきらめるが、多くの目的はただ単に現実化するのに時間が足りないだけなのだ。
自分は選択する権利を持っていて、もし注文を出したら、それは遅かれ早かれ履行されるということを、いつも口に出してみるべきだ。
もし幸運がそこにはなかったとしても、悲しんではならない。
一度うまくいかなくても、もし立ち上がれないほどの悲しみに打ちのめされていなければ、次の機会にはうまく行くことだろう。
あなたは自分の目的を達成するという考えを受け入れる必要がある。
自分がそれに値すると思い、選択権が自分にあることを「知っている」ことだ。
信じられないかもしれないが、まさに「知っている」ということなのだ。
達成しがたい夢であるはずのことが、実は個人の選択だけの問題であるということを、あなたは心の中では信じていない。
天使、神、その他高みにある何らかの力に対しては、お願いしても意味はない。
宇宙をつかさどる法則は、絶対的で非情なものである。
「選択する意図」だけが意味のあることなのだ。
実際にあなたは自分自身で自らの運命を選択している。
あなたからの思考放射のパラメーターがあなたの選択したものに合致していて、その際、法則に違反していなければ、あなたはそれを受け取る。
「選択」とは願い事ではなく、「所有し行動する」という、あなたの決意である。
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「調整」の法則と秘訣
あなたに必要なのは、信念でも自信でもなく、「調整」なのだ。
「調整」とは、あたかも目的がすでに達成されたと考えることから喜びを得て、シナリオをコントロールしようとして握りしめていたものを放し、流れに沿って進むことを意味する。
物質的現実化には慣性が働き、タールが流れるようにゆっくりと実行されるため、時間と忍耐、それに自分には選択する権利があるという揺るぎない確信が必要とされる。
自信のない場合、エネルギーは主に不安や心配に使われ、自信のある場合は、障害を力ずくで克服することに使われる。
これは外の世界との非常に広範囲に及ぶ相互作用である。
だが本当は、すべてはずっと単純なのだ。
普通、あなたはものごとがどのように展開すべきかをおおまかにイメージすることだろう。
「理性」は自分で採用したシナリオどおりとなっていないことに気づくと、すぐにそれをネガティブな変更であるとみなすため、それに見合った態度を取り、自分が理解できる範囲内で状況をコントロールしようとする。
しかし、「理性」は実際に自分にとって何が良くて何が悪いのかわかっておらず、ものごとの展開を予見する能力がなく、目的の実現方法を知らないのだということを、いつも覚えておこう。
あなたから見てそのシナリオが変わりつつあったら、その変化を受け入れて、それに同意することが必要なのだ。
そうでないと、あなたはその変化があなたのシナリオに書かれていないというだけの理由で、その出来事をネガティブに受け入れてしまうだろう。
あなたは流れに沿って進み、シナリオではなく「重要性」のレベルを意識してコントロールするよう「調整」することだけが必要なのだ。
もし「調整」に従って行動するならば、カーブしている流れの向こうから、かつてはいくら信じようとしても信じられなかったものや、不確実なために実現を危ぶんでいたものが、まもなく見えてくるだろう。
人生ラインにおける一つ一つの出来事は、良いほうと悪いほうへの二つに分岐している。
何らかの出来事に遭遇する都度、あなたはそれにどう対応すべきかを選択する。
もし出来事をポジティブなものと考えると、人生ラインの好ましいほうへと進むことになる。
不愉快な出来事は、災厄そのものに続いて起こるわけではなく、災厄に対してあなたが取った態度の後に続いて起こるのだ。
あなたが分岐点で行う選択によって、法則性ができあがる。
何か些細なことであなたがいまいましく思うと、もうあなたは好ましくないほうの道の周波数で思考エネルギーを放射しているのだ。
腹立たしい出来事の中にポジティブなかけらがないか探してみよう。
もし何も見つからなくても、とにかく喜んでみよう。
失敗を喜ぶという、「馬鹿げた」習慣を身につけよう。
まるでその変化こそが必要だったというふりをしてみよう。
シナリオのコントロールを断念すれば、シナリオをコントロールできるようになる。
原因が何であれ、腹を立てたり愚痴をこぼしたりするよりも気持ちがずっと楽になる。
ネガティブに思われる変化を、ポジティブなものとしてみなそうと意図することで、すべてはまさしくそのようになるだろう。
「調整」の秘訣とは、、「重要性」を振り払い、シナリオをコントロールしようとして手に握りしめているものを放し、それと同時に状況を掌握することにある。
問題の持つややこしさのレベルを規定するのは自分だということを認識すべきだ。
もしあなた自身が容認すれば、シナリオ上の変更はあなたに有利に働くだろう。
あなたが流れに沿って意識して進めば、余計な苦労なしに、すべてがうまくいくのだ。
もし目的に、まるでそれが達成されたかのようにして、注意を集中するならば、あなたの扉は開き、手段はひとりでに見つかるだろう。
「あなたの選択」、それは絶対的な法則である。
あなた自身が自分の現実を形成する。
結局のところ、あなたは問題を避け、すべてが順調にいくように暮らしたいのだ。
もし「調整」の法則を利用しはじめたら、そのようになることだろう。
「調整」は実践によって身につく。
あなたはその能力を、つねに発達・向上させる必要がある。
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ゲームの本質を理解する
腹立たしい不快事や厄介な問題に直面した人々は、「振り子」にエネルギーを与え、不安・力の衰え・状況による抑圧感を感じる。
危険なのは、問題そのものではなく、問題に対してあなたが取る態度にある。
もし問題の「重要性」を受け入れると、それはつまり「振り子」にエネルギーを与えることになる。
「振り子」との闘いにおける大事な原則は、「振り子」と闘わないことなのだ。
それは、触知可能な敵との闘いなのではなく、粘土の人形との、ゲームのようなものなのである。
より正確に言うと、それが何なのかを決めるのは、あなたなのだ。
あなたが「振り子」のゲームの本質を認識し、「振り子」の決まりに屈しない限りは、「振り子」は粘土の人形なのである。
本当のところ、その闘いに参加するよう誰もあなたに強いることはできない。
「振り子」があなたに対してできることは、ほかに選択の余地がないと吹き込むだけなのだ。
そして、まさしくそのとおりで、「重要性」の糸にしがみついている間は、ほかに選択の余地がないのだ。
私たちは、自分の「重要性」の囚われ人であり、現実生活で、覚醒状態のまま眠りこけており、機械的に自分たちの役割を演じている。
「振り子」はあらゆる方法であなたのバランスを乱そうとすることを覚悟しておいてもらいたい。
あなたがなすべきことは、ちょうどいい頃合に目を覚まし、どんなゲームが行われているかを思い出し、すぐに「重要性」を放り投げることなのだ。
舞台から観客席へと退いたあなたは、闘いに参加し続けるのも、あるいは、ただ心穏やかに進んで自分の目的をやり遂げるのも、それを決定するのは自分自身であるのだと突如理解する。
過剰な価値観やコンプレックスから急に脱しようとしても無理だ。
それに、脱しようとする必要はない。
要は、あなたが自分の闘いを中止すれば、「重要性」の糸はひとりでに少しずつちぎれていくということだ。
意識して放り投げることができる「重要性」は、すべて放り投げたらよい。
放り投げることができなかった「重要性」は、行動に変換しよう。
あなたの行動とは、「振り子」との闘いを放棄し、穏やかな気持ちで目指す方向へと足を運ぶことである。
あなたはつねに、所有する心構えができているものだけを受け取る。
自分の目的について考えているときには、長年の習慣でつい疑念に囚われたり、またもや手段について案じている自分に気づくようにしよう。
もし疑念を抱いている自分にいつも気づき、成功は単に自分の選択次第だということをすぐに思い出したら、あなたはそのことに慣れていくだろう。
自分の目的を達成すると、ただ思うだけだ。
欲せず、期待せず、意図すること。
要求せず、執着もせず、穏やかな気持ちで目的を達成するのだ。
すべてがすぐに円滑に進みはじめるという保障はない。
今のあなたが落ち着いていて、喜びにあふれ、安定した状態にあるとしても、長続きはしない。
「振り子」が挑発してくるからだ。
たとえば、望ましからぬ状況に陥ったり、悪い知らせを受け取ったりすることだろう。
今後、「振り子」を相手にするあなたのゲームとは、「振り子」の決まりを破ることにある。
大事なのは、落胆したり、塞ぎ込んだりしてはいけないということだ。
最も熱くなっているときに割って入り、万事うまくいく、と繰り返すのだ。
時間が経てば、すべてはうまく「調整」される。
心の支えが失われ、自信も根底から覆されたときは、「振り子」があなたを支配しエネルギーをいただこうとたくらんでいることについて、自分は理解しているのだという認識の中に、支えとなるものを見いだせるだろう。
今がどんなにひどい状態であろうとも、この瞬間のあなたが「調整」を心がけるのであれば、この先には何かとても心躍る思いがけない出来事が待ち受けている、ということを覚えておこう。
もし何かがうまくいかなかったとしても、それによってまだ見ぬ更なる問題を抱え込むことから、救われたのだと思おう。
このように、のんきで穏やかな気分で、運命との出会いに臨もう。
自分の思考エネルギーの放射を、いい予感の実現へと意識して狙いをつけて切り替えよう。
心に祝祭の喜びを抱いていれば、まもなくすべての嫌悪感は消えるだろう。
もしあなたが、流れに沿って進み、バランスを保ち、「調整」の法則を守るのであれば、目的へと続く道に妨げとなるような力は現れない。
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状況と少し距離を置く
この世界で私たちは皆、客人であることを忘れてはならない。
あなたは「選択」することができるが、何かを変える権利は持っていない。
これが自由の条件なのだ。
あなたが絵画展にいるとして、自分の好みに合わない展示品を撤去したり、配置換えしたりすることができないのとまったく同じだ。
そこではあなたが主人ではない。
けれども、もっと気に入ったものを観ようとして、後戻りし、別のホールへ移動することは誰も禁止していない。
もしあなたにそうあって欲しくない何らかの状況があるならば、ただ単にそのことについて考えないようにして、無関心な態度でそばを通り過ぎれば、そのことはあなたの人生から消えてなくなる。
エネルギーの提供を中止することは、そのものについてまったく考えない、頭から追い払う、ということである。
単に「失せろ!」と独り言をつぶやけば、そのものはあなたの人生から立ち去るだろう。
人々は、明らかに自らの行動が原因となった結果が生じることには慣れている。
ところが、「思考」による影響の方は、知らぬ間に現れるため、説明がつかず予知することもできない。
座ったまま瞑想にふけっているだけでは、自分の現実を形づくることは不可能である。
すべての「思考」が現実化されるわけではないし、すべての望みが達成されるわけでもない。
ここでの問題は、「思考」の内容にあるのではなく、その質にある。
単なる夢や望みは、まだ「選択」ではない。
一定の条件を履行する必要がある。
しかし、すべてを知って、すべてを理解するということは私たちにはできない。
本当のところ、何がどのように行われているのか、詳しく正確に説明することは誰にもできない。
知るためのプロセスが際限なく繰り返される。
ともかくも理解可能なことがいくらかあることに対して、私たちは喜ぶべきである。
過剰ポテンシャルを作り出しているのは、私たち自身。
だから「重要性」の程度を引き下げ、もし障害が解消されないのであれば、それと闘うのではなく、脇を迂回すればよい。
世界に圧力をかけることは無駄なだけでなく、有害でもあることを、あなたはすでに知っている。
状況を抱え込んでしまわず、コントロールを弱め、流れを妨げず、周りの世界により大きな自由を与えること。
これは、「状況と少し距離を置く」と表現できる。
いかに「理性」が流れを制御しようとしているかを観察してみよう。
あるものを期待しているのに、別のものをもらったら、あなたは不満を口にする。
誰かが邪魔をしたら、あなたは猛然と腹を立てる。
さて、あなたはここで、コントロールしようとすることから、見守ることへと重心を移してみよう。
コントロールすることを諦めることで、あなたは状況に対してこれまで以上に大きな監督権を手に入れるのだ。
振り返ってみると、あなたによるコントロールは、流れに逆らっていたことが納得いくだろう。
そもそも、いい争う必要はなかった。
あなたからの干渉は余計なことだった。
あなたが思い悩んでいた障害は、決してそのようなものではなかった。
問題はそのままにしておいても、あなたの知らぬ間に、うまく解決される。
あなたが期せずして受け取ったものは、そんなに悪いものではない。
あなたの「魂」の不快は警告となり、あなたは余計なエネルギーを使うことなく、満足していられる。
さて、ここでぜひこのことを忘れないでいただきたい。
流れと折り合って進むことを「振り子」は邪魔する。
「振り子」は、人が一歩進もうとするたびに挑発してきて、両手で水面をたたきつけるよう仕向ける。
状況から少し距離を置くことは、多くの場合、自分の主張に固執するよりも、ずっと効率的で有益である。
もしあなたの利益が大きく損なわれないのであれば、勇気を出して状況から少し身を引き、水面を両手でたたきつける権利を他者に与えてみよう。
自分の選択する権利を行使し、現在あなたを満足させていない人生を、思い切ってお祭りとして受け入れよう。
すると、お祭りのためのまぼろしではないリアルな根拠、すなわち自由を手に入れる希望というものが現れてくる。
あなたは自分が目的へ進んでいるという認識からくる静かな喜びを味わう。
だから、お祭りはいつもあなたとともにあることになる。
「調整」の法則に従って、もし何があってもあなたが人生をお祭りとして受け入れるのであれば、それはそのようになるだろう。
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「世界」を信じて解放する
いつの頃か幼少時代に、「世界」は本当にあなたを気遣ってくれたことを、思い出して欲しい。
そう、あなたが「世界」に冷たく接したときから、「世界」は大きく変わってしまったのだ。
あなたは大人になり、あなたと「世界」との間に立ち入り禁止の壁ができてしまった。
それでも「世界」は、あなたに腹を立てたり、見捨てたりはしていない。
周りを見回してみよう。
それでもあなたの「世界」は、気遣ってくれている。
「世界」はこれまでどおりに、あなたを養い、ベッドで寝かせてくれる。
ところが、あなたは平然と顔をそむけると、眠りに就く。
自分にとって「世界」は居心地悪くなり、過去は戻らないものなのだ、と固く信じこんだまま…。
しかし、鏡が変化することはありえないように、「世界」も変化していなかった。
変化したのはあなたの接し方の方であり、あなたの「思考」の反映であるリアリティが、あなたの態度に従ったまでのことなのだ。
人は「自分の欲するとおりに」なるよう努カする。
しかし、なぜか「世界」はそれに従おうとはしない。
「世界」は、まるでいやがらせをしているかのようにふるまってくれるものだと感じることがよくある。
説明のつかない力によって、不快なことが引き寄せられてくるような気がするのだ。
人は、そうした異常がバランスの崩れた結果であることを理解せず、取り巻く「世界」と闘おうとする。
少し考えてみる必要がある。
もしリアリティのふるまいが期待にそぐわないのであれば、別のアプローチをとらなくてはならないだろうということだ。
自分の願望や要求に固執しようとすればするほど、あらゆる正反対のものを引きつける磁石は、ますます強力になる。
そして、あなたは「世界」の胸ぐらを取るが、「世界」のほうは解放されようとして、抵抗するのだ。
握りしめているものを手放し、「世界の胸ぐらを取る」ことをやめたら、すぐに「世界」は愛想よく言うことを聞いてくれるようになる。
行わなければならないことは、状況に対する自分の接し方を、意識して変えることだ。
「世界」を解放して自由の身にし、どこへなりと好きなところへ行かせてあげればよいのだ。
自分で固く握りしめているものを、ゆるめよう。
あなたがようやく幻想から抜け出して我に返ったことを、「世界」はどれほど喜んでくれることか。
さて、これであなたと「世界」は一緒になり、すべて元通りになるだろう。
この古くからつきあいのある献身的なしもべを、自らの好ましからざるふるまいによって傷つけることだけは、二度としないように願いたい。
あなたに必要とされるのは、注文を行い、「世界」がそれを執行するのを認める(容認する)ことがすべてだと理解してもらいたい。
あなたが要求したり、乞い願ったり、恐れたり、疑ったりすることで、せっかく「世界」があなたにしてあげようとするのを、あなた自身がそうさせまいとするだけになる。
このような場合、「世界」も何かを要求し、乞い願い、恐れ、疑う、
すなわち、あなたの態度をそっくりそのままはね返してくる。
何しろ「世界」は、鏡にすぎないのだから。
一瞬、信じられないようなことをイメージしてみよう。
敵意に満ち、問題だらけで、つらく、居心地の悪い世界が、突如としてあなたにとって喜びにあふれ、快適なものとなるのだ。
あなたは「世界」がそうなることを認めてあげるのだ。あなたがそう決意するだけのことだ。
幸せになることを自分に強要するのではなく、幸せになることを思い切って自分に認めてあげることが必要なのだ。
「世界」を、信じてあげるだけでよい。
「世界」はどのようにして目的までたどり着くかを知っており、そのためのあらゆる世話を、自分から買って出てくれるのだ。
人はすべての問題を、ひとりで処理することはできない。
そうした問題は、「世界」に任せようではないか。
「世界」は、あなたと比べたら、計り知れない力を持っている。
「世界」に対する自分の態度を制御することによって、あなたはリアリティを制御する。
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