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備忘録

リアトラ2

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リアトラ2

過剰ポテンシャルと平衡力

評価に必要以上に大きな意義が与えられる場合、本当はそこにないものがあるかのように思われると、「過剰ポテンシャル」が生じてくる。

自分の内部または外部において、質、対象、事象などに過剰な意義を与える場合に限り、過剰ポテンシャルが産み出される。

あるはずのない束縛・依存関係・他のものとの対比・過大評価・理想などがそれにあたる。


過剰ポテンシャルを築いてしまったら、あなたの意志とは関係なく、自然と過剰ポテンシャルを減少させる方向に働く力が発生する。

いかなるエネルギーであっても過剰ポテンシャルが生じたところならばどこでも、不均衡を解消しようとする「平衡力」が働く。


ほかの人々を非難する、とりわけ軽蔑する時に、平衡状態が大きく崩れる。

エネルギー面では良い人も悪い人もなく、あるのは自然法則に従う人と現状に擾乱を持ち込む人だけだ。


あなたの不満は、それが正当なものであるか否かにかかわらず、周囲を取り巻くエネルギー空間において、過剰ポテンシャルを生み出し、そしてバランスを回復しようとする平衡力を発生させる。

自分に対する不満を抱いている場合は、自分の「魂」との葛藤に突入することになるのに対し、世界に対する不満をいだいている場合は、大変な数の「振り子」と対決することになってしまう。


平衡力は、この世界に対するあなたの不平不満ができる限り小さな比重しかもたないようにするため、あなたの鼻っ柱をくじこうとする。

平衡力は、何に対して罰するのか、または報いるのか、ということについてはまったく関知しない。
エネルギー場において、発生した異質なものを取り除こうとするだけなのだ。


人は偶像を作り上げ、それを高いところに祀ると、遅かれ早かれ神話が地に落ちるようなことが起こる。
平衡力は、対立するポテンシャルを持つ人々どうしを衝突させることで、ポテンシャルの解消に向かう。

過剰ポテンシャルの値は符号がプラスでもマイナスでも同じであり、過剰ポテンシャルが強ければ強いほど、その結果は望んでいるものから遠ざかる。


過剰ポテンシャルをつくらず、執着せずに行動しよう。

どんな理由があろうとも、決して他人を非難・軽蔑してはいけない。
自分の短所を許してあげ、あるがままの自分でいることを許してあげよう。

悪いことにもどこかに良いところがある。
否定的と思われるなんらかの現象の中に肯定的な部分を見つけ出すことを目的とすること。

そのゲームに常に興じること。


あなたが自分を取り巻く世界に喜んでいるようなエネルギーは、平衡力が解消に向かうような破壊的なポテンシャルをもたらさない。

変位の尺度におけるゼロ目盛りに相当するのは、無条件の愛である。


願望は、過剰ポテンシャルから解放された「純粋な意図」に変わったとき、実現される。





「罪悪感」と縁を切る

「罪悪感」とは、純粋な形の過剰ポテンシャルである。

あなたが悪い行いをし、それを認識し、「罪悪感」を抱くと、ポテンシャルが作られる。
そして良い行いをし、誇りを感じても、やはりポテンシャルが作られる。

「罪悪感」は、必ず罰を受けるシナリオを用意する。
残念ながら、良い行いを誇る感情も、褒美ではなくて、罰をもたらす。

良いふるまいも悪いふるまいも、「平衡力」にとっては等価値であり、ただエネルギー場において発生した異質なものを取り除こうとするだけなのだ。


「罪悪感」というコンプレックスは、人生をひどく害することがある。

もしあなた自身が罪を犯したと思わないならば、誰もあなたをあえて裁こうとはしないだろう。

しかし、あなた自身が自分を裁判にかけたがために、他人はあなたを裁くことになる。


もしあなたに「罪がある」のであれば、あなたは罰を受けることに潜在的に同意していて、それ故にあなたは恐れるだろう。

もし、あなたが「罪悪感」を覚えるならば、略奪者やならず者にあなたを襲撃する権利があることを潜在的に同意していることになり、それがためにあなたは恐怖するだろう。


劣等感を抱くそもそもの原因とは「罪悪感」である。

最初からあなたは、とにかく自分で罪を引き受けようとする気持ちを持っていて、自分を他者と比べつつ、他者があなたに対して優位に立つことを容認している。

他者にその権利を渡し、他者があなたよりもましだと考えることを容認したのは、あなた自身であることに気づいていただきたい。


あなたを説教したり操ったりしようとする人たちの欲求は、他人を低く見ることで、自分の立場を確かなものにしたいという願望から生じている。

彼らは心がつねに疑惑や自信のなさに苛まれているため、他人を犠牲にすることで自己肯定へ向かおうとする。


もしあなたが誰にも害を与えていないのなら、たとえ何に対してであれ、誰もあなたを裁く権利は持っていないことを肝に銘じるべきだ。

皆の前で自分を非難するべきでもないし、自分を弁明するべきでもない。

自分の存在意義の評価を、他人の手に委ねてはならない。
あなたはもうこれ以上、自分を弁明する必要はない。
なぜなら弁明するべきものがないからだ。


あなたの短所を見つける人は必ずいるが、あなたが「罪悪感」から解放されているならば、あなたを犠牲にして自己肯定に励もうなどとは、誰の頭にも思い浮かばない。


「罪悪感」とは縁を切る必要がある。

潜在意識に潜んでいる、罰を受けるあらゆる可能性を排除すること。


あなたを裁く権利は、誰も持っていない。
あなたは、あなたでいる権利を持っている。

もし自分自身でいることを自分に容認できるならば、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまう。

すると、誰もあなたを侮辱しようとはしなくなる。
あなたがどこに居ようともである。


個人的な尊厳を勝ち得るための鍵は、罪悪感を持っていないということにあり、本当の個人の力は、その人格が「罪悪感」からどれほど自由でいられるかにある。





「重要性」と縁を切る

あなたの目の前に何らかの対象がある。

それはエネルギーレベルでは中立であって良くも悪くもない。

周辺世界とバランスを保ち、「振り子」から自由でいるためには、「重要性」を低くする必要がある。

「重要性」は過剰な意義を与えられているところで発生する。
ものごとに「重要性」を与えるおかげで、あなたは一生、「平衡力」との闘いに明け暮れてしまう。


もしあなたが問題だらけの状況に遭遇したならば、どこでやりすぎたのか、どこをつかまれてしまったのか、何に過剰な意義を与えたのか、突き止めてみよう。そして、それと縁を切ろう。

過剰な感情や心労は、「重要性」を与えてしまった結果なのである。
原因となっている関係を取り除かなければならない。


自分自身と周辺世界とをどれほどの「重要性」を与えながら知覚しているのか、あなたは常に把握していなくてはならない。
内なる見張り役をうたた寝させてはいけない。

日常の世界の、あるがままを受け入れ、自分をあるがままに受け入れること。

恐怖や動揺を押しつぶすことはできない。
しかし、「重要性」を低くすることだけはできる。


問題解決に着手する前に、「重要性」の程度を引き下げること。

そうすれば「平衡力」が邪魔することはなく、問題解決は簡単に呆気なく済むだろう。
障害を克服しようとはしないで、「重要性」のレベルを引き下げればよい。


「真剣に入念に準備する」ことは、「重要性」を強めてしまうだけなので、決しておこなってはいけない。
自然にふるまう、成り行きにまかせる、気軽な対応、というのが効果的な処方箋としてあげられる。

準備をするというなら、「保険をかける」という形に限る。

もしあなたの状態が何らかの事柄に強く依存しているのであれば、代わりのものを見つけたらよいだろう。
それが保険、または予備である。
どんなに確信があるにしても、一枚のカードにすべてを託してはいけない。


「重要性」を引き下げるための、簡単で効果的な方法は、前もってうまく行かなかったときの状態に馴染んでおくことである。

目標を達成できなかったときの気持ちに馴染んだ後は、失敗についても、成功についてもそれ以上は考えずに、ただ目的に向かって進もう。


あなた自身よく理解されているように、自信のなさと格闘しても無益なだけだ。

この複雑に錯綜した迷路からどうやって抜け出たらよいのやら。
いいや、あなたはどうしても抜け出すことができない。

出口はないのだ。


この迷路の秘密は、あなたが出口を探すのをやめ、「重要性」と縁を切れば、迷路の壁が崩れ落ちるという点にある。

迷路の壁は「重要性」でできている。


本当は、望みの実現に続く道における唯一の障害は、人為的にもたらされた「重要性」なのだ。


「重要性」のポテンシャルは行動によって拡散する。

考えていないで、行動すべき。
もし行動することができなくても、考えてはいけない。

注目の中心を執行者としての自分や最終目的から逸らし、それを行動が履行される過程へ振り向けると、あらゆる行動において最高の効率が得られることになる。


もしあなたが自分の未来に対して安心した気持ちをいだいていれば、「平衡力」の作用があなたに及ぶことはない。

「重要性」と縁を切ると、あなたは「選択の自由」という宝物を手に入れることができる。





あなたが「選択」しているもの

どの人も程度の差こそあれ、自分の周囲に「過剰ポテンシャル」を発生させる傾向がある。

私たちはしばしば、様々な不快・問題・障害などを、この世界で切り離すことのできない特性として受け入れる。

だが本当は、不快は異常なことであって、正常なことではないのだ。


不快なことがらの大部分は、あなたや周囲の人々によって生み出された「過剰ポテンシャル」を解消しようとする「平衡力」の作用によって引き起こされたものなのだ。

もしあなたが「過剰ポテンシャル」を維持するために行っている膨大な努力から解放されたら、不快なことがらの大半を味わわなくてすむだろう。


「優越感」や「劣等感」は、純粋な形での依存関係であり、あなたの質がほかの人々の質と対比されるため、「過剰ポテンシャル」が作られるのは避けがたい。

優劣を比較して、自分の位置づけに気をもむことを行ってはならない。

自分の意義を高めることに腐心するというお荷物を肩から下ろしたら、「平衡力」の働きから免れ、問題は減っていき、それに続いて自分の力への自信が沸いてくることだろう。


また、コンプレックスとの格闘は、コンプレックスそのものよりももっと不快な結末をもたらす。

自分の短所と闘うことも、それらを隠すこともせず、ほかの資質で埋め合わせるべきなのである。


周りにいる全員が、あなたの短所に対して、あなたが感じているのと同じような意義を与えていると思ってはいけない。

あなた同様、皆が自分の問題だけで頭がいっぱいなのである。


本当は、各人は自分自身のことだけを気にしているのだから、その大変なお荷物は肩から降ろして大丈夫である。

「過剰ポテンシャル」は消え去り、「平衡力」は状況を悪化させることをやめ、解放されたエネルギーは長所を伸ばすことに向けられる。


人々は自分自身で問題や障害を作り、その後、それらの克服に労力を費やす。

障害に遭遇した者は誰でも不満を表したり、意気消沈したりして、否定的な反応をするものだ。

その結果、あなたの人生は斜面を転がり落ちていくことになる。


あなたは自分の行動によって障害を克服することを考えている。
だが、実際は、自分自身で選択したものを受け取っているのだ。

シナリオに載っている気に入らない箇所を変えようとして、あなたはまさに好ましくないことについて考えている。

そうすることで、あなたの「選択」はまんまと実現されてしまい、あなたは欲していないことを受け取ることになる。


あなたの選択はいつも現実化される。
あなたは選んだものを受けとるのだ。
どのような世界観を選んだとしても、真実はあなたの側にある。


陽の当たる場所を求めて世界を相手に闘ってはいけない。
これは最も効率の悪いやり方である。

あなたができることは、「他を選ぶ」ことだけである。


欲するものすべてを「選択する」自由を誰もが持つことができる。

自分でそこに身を置きたいと思うような世界を自分のために「選択する」ことは、誰もあなたに禁じていない。

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