別の領域とは「エゴとは別の領域」なんだから、エゴから離れたら別の領域なんだよ
観察している本当の自分を意識しようとすると疲れる。疲れるってことは間違ってるんだろうな。
鏡無しで自分の目を見ようとしている感覚。
何かコツとかないですかね?
何で疲れるんだろうね。どこかに能動的なものが残ってるんじゃないの?
不快や不安を感じてる時って、思考が何かについて改善や対策を求めて騒いでる。
その時、その騒いでる思考に気づくことが自己観察。
で、思考に気づいたらどうするか。
まぁ何もしないんだけど、強いて言えば思考を観察するモノになる、というか。
思考を観察してるモノって何かというと、
何もしないし何も考えない存在。
沈黙のまま静止して、ただ見る、ただ聞く、ただ感じるだけの存在。
姿勢的には完全に受け身。何かをどうにかしようなんて気は皆無。
言うこともする事もないので、いつもただゆったりくつろいで世界を観察しているだけ。
自己観察って、要は思考を観察するモノとの一体化体験(別の領域ってヤツ)を
する時間を増やして、楽になりましょうって事でしょ。
楽になるためにやる行為で疲れるってのは、本末転倒だよね。
いや本当、本末転倒でやんなってきちゃうんだよ。
「見よう」とするから目の後ろが疲れるんだと思う。
~を見ている意識…~を見ている意識…~を見ているry
これやるとどんどん意識が頭の後ろに移動して行くんだよねw自己観察向いてなさそう。
ところで胴の中心あたりに嬉しそうにしているモノがいるんだけどコイツが別の領域なのかな?
観察してるって感じがハッキリしないから自信持てないんだよね。
自分の気もするし自分じゃない気もする。観察してる気もするし観察されてる気もする。
体の中心にいるそれを感じていれば、それで良さそうだけど。
観察してるとか、見てるという事にあまり重きを置かない方がいいような。
感覚はみんな一人一人違うので、本家の自己観察さんはともかく、
俺には人の事はよくわからないけどさ。
自己観察さんはいろいろ書いてたけど、一番メインは
「別の領域にいることの大切さ」を伝えようとしてたと思う。
質問者にも、その人の感じてるのが別の領域なのか、そうでないのかを
アドバイスするのが本意だったような気がする。
そして、そこにいるためには「思考や感情から離れること」が必要で、
だから思考や感情に気づくこと、つまり自己観察を勧めてたわけで。
別に思考を見ること自体には意味はない。気づいて離れるために見る。
それ以上でもそれ以下でもない。
自己観察なんて「思考があることに気づく→思考から離れる」ただこれだけ。
意思の力で思考を見つめるとか、そんな力の入った事じゃない。
その「思考に気づいて、そこから離れる」と、そこにあるのが別の領域だ、と。
そしてそこには何のスペシャル感もなく、特別な気づきもない、と。
そこに行くのは超絶簡単。
故に、達成感を求めてやまないエゴがそれを、そのことを受け入れるのは超絶難しい、と。
特別な何かはないのだ、そしてその簡単で普通で当たり前の場所に、
本当に明確に気づく事が真の特別さだというような話を書いてたね。
外部の世界がニュートラルだってことは割りと把握しやすいと思う。
ところが、自分の問題になったときは個人的な感情が絡んでくるからなかなかそうは行かないよね。
ところがだよ。
「私たちはもともと別の領域にいた」はずなんだよ。
「それがエゴと同一化して見えなくなっている」だけなんだ。
よく言われる主張だがこれの意味するところはどういうことか?
これはね、自分の内面もすべてニュートラル=完璧だっていうことなんだ。
普通、私たちは不満や疑問を「解消しようとする」。すなわちなくそうとしてる。
この裏側には、自覚しにくいが、「不満や疑問を感じたくない」
という拒否する気持ちが隠れている。
ここで思い出すんだ、「自分の内面もニュートラル」ということを。
不満や疑問はエゴ的には望ましくないものだが、
自己観察的に言えば観察する対象でしかない。
そして捻くれ者の観点から言えば自分で望んで作り出したものだ。
だから、
拒否すれば再配達(自分で作ってるんだから当たり前だよな)。
自分は完璧だということを思い出して、エゴ的に負の感情を観察すれば、
拒否しようとしてしまうならまず「拒否しようとしている自分」を観察すれば、
受け取ったことになり次第に消えていく、というわけなんだ。
なぜなら出所であるエゴは有限だからね。
ここでいきなり「消えないな~、だめだ~」となるのは、
消そうとしてる=消えないものは良くないものだ、消さなきゃ=受け取り拒否、というわけなんだ。
エゴを見ている自分になれたら、これは別の領域だろうか?とか確認しなくてもOKだよ。
別の領域とは「エゴとは別の領域」なんだから、エゴから離れたら別の領域なんだよ。
これは別の領域?と確認することは別の領域の認識を取り下げることになる。
そして、「エゴとは」「別の領域」という意味だから「別の」と書いてあるが、
世界=自分、ということを考えれば、エゴも世界に包摂されているはずでしょ?
すなわちエゴも別の領域に包摂されているはずなんだよ。
私たちはエゴと同一化しちゃって、不完全と思ってしまうが、
そう思うことすら実は別の領域に含まれていた=完璧だったんだ。
(「だったら何もしなくていいんじゃないの」という疑問に対する答えは、
「そうだけどエゴと同一化してたらしんどいでしょ」です。
捻くれ者やisaが言うには「認識の変更は必要」ということ。)
662
>>643
>自分がバカだったことや経緯は観察して納得できるけれど軽蔑されたということの
>(↑これもエゴの思い込みと思っても、実際そうだからそう思えないんだよね)
>心の痛みがなかなか取れない。
んー、「バカな行為」や経緯を観察するんじゃないんですよ。
それだと起こってる出来事、行動を「軽蔑された」「バカな行為だ」とエゴで判定してるだけですよね。
観察するのは出来事ではなくて、あなたのその判定の方です。
「中立的な出来事」を「軽蔑された出来事」として見ているフレームの方です。
ただ起きた出来事を「自分がどう捉え、どう感じているか」ということに気づくことなんです。
>こういう時って、心を平静に保とうとしても根本的な自信のなさ
>(学歴がないとか仕事で業績をあげていないとか)が浮かび上がって、
>そういう気持ちがでてきたと観察しても今ある自分が全然OKだとは思えない。
バカなことした、と自責しながら平静になろうとすると蓋になります。
学歴や業績がないことに劣等感を持ちながら「学歴とか業績ない自分」を
今の自分でいいとは思えないでしょう。
それはまだフレームの中に入り込んで、自分の気持ちをコントロールしようとしてるんです。
フレームの中から抜け出して、
「あー、『私』は業績とか学歴とかを理由に自分を卑下してるな」
「自分はダメだと責めてるんだな」
「相手の態度で軽蔑された、と判断してるんだな」
「こんなことしたら軽蔑されても当然だと思ってるんだな」
と、ぐるぐるしてる自分を客観視するんです。
自愛をするならそこで「そういう自分でも全然OK」です。
それでも全然OKに思えないなら、「私はそういう自分を受け入れられないんだな」と
自分に「受け入れられない気持ち」があることを認めればいいんです。
>結局、根本的に自分をOKと思うためにはがむしゃらに努力して
>成果をあげて自信をつけるしかないと戻ってしまう。
「自分をOKと思う」ことは必要ないです。
上に書いたように、「自分をOKと思えない自分がいるんだな」というのを認めればいいだけで、
そのこと自体に良い・悪いという判断を下す必要はないです。
「自愛しきれないとうまくいかないんじゃ…?」と思うかもしれませんが、
「こういう自分がいるんだな」ということ認めることが出来た時点で、自愛としては成功です。
自愛=自分をOKと思うこと、というのは、自分を認めることと同じ意味です。
「こんな自分でもOK」=「私はこんな自分は嫌だ、と自分を受け入れられていないんだな」です。
自分にOKを出した方が、自愛を自覚しやすいですが、
別の領域視点の愛でいうと、割と淡々と冷静な視点でもあるので、
「OKを出せない自分がいるんだな」と認めてあげる視点が愛だったりします。
そして、成果などの根拠を必要とする自信を持つことは悪いことではないですが、
あなたのすべての源泉はあなた自身なので、成果などの条件なしに自分自身に自信を持ってない状態では、
外側(社会的な根拠)で自信を求めようとしても、次々に自信を持てないような
状況が繰り返されることになります。
なのでまずは自分の内側で、無条件に大丈夫なんだ、という感覚を感じてみることです。
そして大丈夫だ、と思えなくてもそういう自分がいるんだな、と認めてあげてください。