意図と行為が同時の運動であるというのは、 おっしゃる通り、意図した時点で全てが完了しているということです。
あとはただ受け取るだけ。
「受け取るに値する」あなたが、「受け取ることを自分に許す」だけです。
実は全てのあらゆる瞬間に、それが行われています。
瞬間瞬間に私たちは受け取っているのです。
望ましい現実も、表面的には望ましくない現実も、 全ての現実に対してあなたは受け取るに値し、受け取ることを許しているのです。
では、なぜ意図したはずの現実を受け取っていないのか?
それは、その意図が恐怖に基づいているからです。
恐怖から逃れるために意図されたものだからです。
例えば、借金苦から逃れるために大金を手に入れることを意図したり、
孤独が辛く寂しいからと恋人の存在を意図したり、
死の恐怖から逃れるために病気を治すことを意図したり……。その他いろいろあるでしょう。
私も死への逃亡を考えるほどお金に困っていた時には、ロト6を当てることが出来ませんでした。
金額的にはたかが知れたもの。ビル・ゲイツの時給とほとんど変わりません。
なのにどんなに願っても、どんなに祈っても、最も切望していたその時には、
それを得ることが出来ませんでした。
もちろんこれらの意図が実現した現実も確実に存在するはずです。
想像可能な現実は、全てが既に存在しているか、
あるいは存在に向けて結晶化しつつあるという解釈を私は採用しています。
しかし、恐怖から生まれた意図は、恐怖と一対。恐怖と縁が切れません。
まず恐怖ありきで、恐怖を土台にしているのですから、仕方がありません。
この恐怖から逃げ回ることで、あなたは意図の実現からも逃げ回っているのです。
意図が実現された望ましい現実を受け取ることを拒否しているのです。
また、望みが叶えられないかもしれない、叶わなかったらどうしようと恐怖することで、
叶わなかった場合の現実を想像してしまうこともあるでしょう。
そんな想像も現実に結晶化すれば、あなたには十分に受け取る価値があります。
では、どうすればいいのか?
と、「どうすれば」を求めないこと。
つまり恐怖の根源である問題を解決しようとしないことが、
唯一の道であると私は観ています。
何もしないで放っておく。事の成り行きをただただ見守る。
何もしないということは、何かしたいこともしない、ということではありません。
問題を解決しようなんて気は起こさずに、成り行きに身を任せてみる。
やりたいことはやる。それを見守る。
次第に問題は面白いように自然消滅していきます。私は実体験から断言出来ます。
恐怖と一緒に消えてしまう意図もあるでしょう。
消えた意図は、もともとあなたに必要無なかったものだと知るでしょう。
受け取る必要の無かったものです。
でも次に受け取る現実は、恐怖とは一対ではない、愉快痛快な現実ばかりになるでしょう。
>恐怖を欠乏に置き換えることもできますよね?
できます。恐怖、欠乏、何であれ逃避から意図された現実は、受け取りが困難です。
>叶わない現実を意図しているから、ということでしょうか?
それに加えて、ホメオスタシス(恒常性)のようなことも影響しているのでしょう。
変化しようとする働きに対して、元に戻そうとする負のフィードバックが働くということです。
おそらく人は、身の安全のために、無意識のうちに「現状維持」を意図し、それが実現された現実を受け取ってしまうことが多いのでしょう。
そこで、無意識の現状維持意図を超えるためにも、
思考を介在させないことが大切になってくると思います。
「ただ見る、わかる、ただ行う、ただ受け取る」ことが、その道であると私は実感していますが、
思考を思考で上書きするという方法も、人によっては同様の効果があるのでしょう。
特に199式のようにトコトンやり通すなら、思考の上書きという域を超えて、 思考を超えた「ただそうあるものをただ受け取るだけ」状態になっていると思います。
また、負のフィードバックが起こりそうだと気付いたら、あえて「イエス!」と肯定する。
負のフィードバックに「ノー」と言うのではなく、望ましい現実が結晶化しつつある全プロセスを「イエス!」と全肯定する。
「イエス!イエス!イエス!」「これでイイ!これでOK!全部うまくいっている!」と全肯定する。
このことが実際に「イエス!」な現実とあなたをシンクロさせると思います。