破壊的願望
以前、引き寄せスレで
「どんな願望でも持って構わない」
と書きました。
もしそうだとすると、こんな風に考えてしまう人がいるかもしれません。
「それじゃ『銀行強盗や殺人を成功したい』という願望も、持って良いことになるのではないか」
「『世界征服したい』という願望を、叶えることが出来るのか」
少しばかり、子供じみた発想だと思われるかもしれません。
しかし今回は敢えて、この部分について少し掘り下げてみましょう。
あ、その前にあらかじめ言っておきますが、そんな願望でも「持つこと」自体は問題ありません。
そのこと自体に「良い」「悪い」はありません。
また「叶えることが出来るのか」という問いについても同じです。
「可能」です。
さて、上記のような、いわば「破壊的な願望」を突き詰めてみると、あることが見えてきます。
例えば、
「私は銀行強盗を成功させたい!」
この願望を少し掘り下げてみます。
「どうして銀行強盗を成功させたいの?」
「そりゃ、成功すれば大金を手に入れることが出来るからだよ」
もう出てきました。
本当の願望は「大金を手に入れること」だったわけです。
では、他の願望についても同様に検証してみます。
「どうして殺人を成功させたいの?」
「社会に裏切られてばっかりで、ちっとも良い思いをしてないから。誰でも良いから復讐してやるんだ!」
またしても、すぐに出てきました。
目的は「殺人」ではなく「復讐」でした。
もう少し掘り下げます。
「どうして、社会に裏切られてばっかりで、良い思いをしていないの?」
「こっちが聞きたいよ!この現実社会は自分を受け入れたくないんだろう。なんか知らんが、社会全体から呪われてるんだ。だから良い思いなんて出来るはずがない」
お分かりでしょうか。
この人は、
「自分は社会に受け入れられていない」
「社会から呪われている」
という観念を保持していました。
ここをもっと掘り下げると、おそらく
「自分は人より劣っている」
「自分は嫌われている」
「だから自分は成功してはいけない」
このような思いこみが現れてくるでしょう。
ここではそれを割愛して、この人が持っているもう一つの観念について、追求していきます。
「どうして『誰でも良いから』復讐したいの?」
「とにかく、社会に仕返しをしてやりたいんだよ!」
もう少し、シツコク食い下がってみます(笑)。
「どうして、社会に仕返しをするために、殺すのは『誰でも良い』の?」
「俺を苦しめているのは社会だからだよ!だから、殺すのは誰でも良い」
「答えになっていません」
「だから!!苦しめているのが誰かなんて、個人的な特定は出来ないんだよ!
社会は全て敵だ!俺以外は敵なんだ!だから、俺以外の誰かを殺せば、それは社会に復讐したことになるんだよ!!」
かなりハッキリしてきました。
この人は、自分と社会とを「分離した、二極の対立構造」として捉えています。
「誰でも良い」というのは「実際には、そんな特定の相手は存在していない」からだと分かります。
お気づきでしょうか。
この人の求めているものは「愛」なのです。
受け入れられ、愛されたいというのが本当の願望です。
それは、表面上の願望として現れている「誰かを殺す」という目的を達成したとしても、決して得られるものではありません。
彼は、裏に潜んでいる本当の願望とは、まるで逆の願望を持ってしまっているのです。
殺人願望が「社会全体への復讐」ではない場合もあります。
例えば、こんなケースです。
「どうして殺人を成功させたいの?」
「アイツが憎くて憎くて、仕方ないからだよ!」
「どうして、憎くて憎くて仕方ないの?」
「アイツが、私に酷い仕打ちばっかりしてくるからだよ!」
「どうしてその人は、あなたに酷い仕打ちばっかりしてくるの?」
「知らないよ、そんなの!私のことが嫌いなんじゃないの!」
「どうしてその人は、あなたのことが嫌いなんだろう?」
壁
「何か、私に気にくわないところでもあるんでしょ!!」
この人とその相手とは、継続性のある「特定の傾向を持った関係性」を築いていることが分かります。
その結果、この人は「私は特定の人物にとって気にくわない」という観念を持っています。
そして、この人の本当の願望は「特定の人物から嫌われたくない」つまり、「誰からも愛されたい」です。
この人の場合も、本当の願望である「誰からも愛されたい」とは、正反対の願望を表面上、抱いてしまっているのです。
このように「破壊的願望」には、その裏に正反対の「本当の願望」が隠れています。
そしてその願望は、表面的に保持している「破壊的願望」を達成しても手に入れることが出来ないものです。
その破壊願望が実現されると、むしろ本当の願望実現からは遠ざかってしまうことが分かります。
つまりそれは、幸せから遠ざかってしまうということです。
それでもあなたは「破壊的願望」を実現させたいでしょうか?
どんな願望でも、持つことは自由です。
実現させることも可能です。
でも、せっかくなら「本当の願望」の方を実現して、幸せを感じた方が良いに決まってます。
最後に、例としてあげたもう一つの破壊的願望である「世界征服」について、掘り下げてみましょう…
…ちょっと待ってください。内部から私に問いかけてくる声がします。
少し耳を傾けてみましょう。
「あなたは、どうして『世界征服』が『破壊的願望』だと思うの?」
「いや、だってそうでしょう。世界を意のままに操るなんて…」
「どうしてそれが『破壊的』なの?」
「それは、う〜ん…」
「ねえ、どうして?」
「…」
*
態度
「人を見て態度を変えてはいけない」
先生から、学校で道徳の時間に言われるようなことです(笑)。
倫理観全開のようなこの言葉には、実はもう一つの深い意味があります。
「分け隔てをしてはいけない」
「誰にでも同じ態度で接しなくてはいけない」
普通に考えると、これは倫理観に基づいた「公平性」を主張しているようです。
なぜ公平性が必要とされるかというと、不公平が横行すると、そこに誤解、不平、不満の種を蒔くことになり、結果的に、憎しみや争いがもたらされるからです。
大げさに言うと、社会が混乱する原因となるからです。
つまり、この言葉が世界にもたらそうとしているのは「秩序」です。
皆がそうしていれば、間違いなくこの世はユートピアになります。
この言葉は、世界を理想郷にするための約束事なのです。
現実社会を見渡してみましょう。
果たして、この約束事は守られているでしょうか?
いや、現実社会を見渡すまでもありませんね。
自分自身について振り返ってみれば、答えは明らかです。
こんな約束事は、誰一人守っていません。
「だって当たり前じゃないか。誰もが自分だけ得をしようと思い、世間は裏切りと不公平のオンパレードだ。そんな世界で自分一人だけ、そんなお気楽な約束事を守っていられないよ!」
全くもって、ごもっともです。
自分がそうしようと思っても、相手から不当に扱われたり、自分より他の人が優先してえこひいきされたり、あらかじめそんな風に扱われていたのでは、とても自分から『誰にも分け隔てなく接しよう』なんて気持ちには、到底なれません。
「そんなことをしても自分が損をするだけだ」
こういう気持ちになって当然です。
…扱うテーマを間違えたでしょうか?(笑)
いえ、間違っていません。
「人を見て態度を変えてはいけない」
この言葉は正しいのです。
ただし、上述したような理由で、ではありません。
上に書いたことは、今後一切忘れてくださって結構です。
誰一人守れないような「約束事」という観点を、敢えて持ち続けても全く意味はありません。
認識しておくべきことは、この言葉の持つ、もう一方の側面です。
すなわち「意図した現実を現象化させる」という側面です。
通常、我々は相手によって態度を変えてしまいます。
相手が好意的であれば、こちらも好意的になります。
相手が敵意を持っていれば、こっちだってと敵意を持ちます。
笑顔で、
「おはよう」
このとき、相手も笑顔で「おはよう」と返してくれれば、
「この人は感じが良い。これからもこの態度で接することにしよう」
こんな風に思います。
でも、相手がブスッとして返事をしてくれなかった場合、
「なんだよ。こっちは愛想を振りまいているというのに。なんだか損した気分だ。偉そうにしやがって。こんな奴には、二度と挨拶なんてしてやるものか」
こうして、分け隔てをしてしまいます。
「誰にでも同じ態度で」という崇高な約束事は、もろくも崩れ去ります。
お気づきでしょうか?
あなたが最初に笑顔で「おはよう」と言ったとき、あなたは自分の意図でそれを表現していました。
ところが、相手のリアクションが期待したものと違った場合、あなたの意図は簡単にねじ曲げられてしまったのです。
「それは相手が悪いからだよ」
そう言いたくなるのは当然です。
しかし、あなたはその時、紛れもなく「相手のリアクション」によって、態度を変えてしまったわけです。
リアクションに対してリアクションをしてしまった、ということになります。
最初の意図は、どこに行ってしまったのでしょうか。
これは誰もが気づかずに、自然とやってしまっていることです。
相手によって態度を変えたことが問題なのではありません。
そうやって無意識に、意図を簡単に撤回してしまっていることが問題なのです。
結果、あなたは現実に対するリアクション装置に成り下がってしまいます。
意図を現実に左右され、あっさりと撤回してしまうことが習慣化しているのです。
我々は、知らず知らずのうちに、こういった訓練を自分に課してきました。
それが現実に適応することだと、すっかり信じ込んでしまっているのです。
「あの人は、小さいことを全く気にしないな。ちょっと鈍感なんじゃないのか?」
「彼はスケールが違う。俺たちと違って、遙か先の方を見ているよ」
「君は、よくあんなことを言われて気にならないな。俺だったら辞表を叩きつけているよ」
大人物とか大成功した人は、得てしてこういった特性を持っていると思いませんか?
人のリアクションに対して、いちいち細かく一喜一憂しない。
「アイツぁ、大物だよ!」
なんて揶揄されたりしますが、この特性は決して無視できない重要な要素です。
彼らは図太いのです。神経が図太いのではなく、意図そのものが図太いのです。
物理的に、本当に図太いんですよ。
まるで小動物のように、ちょっとしたことにビクビクして、意図の出し入れを頻繁に行っている人間からすれば、彼らはそんな風に見えて当然なのです。
あなたは彼らのように「図太い」でしょうか?
もしそうでないとしたら、現実に振り回されるのは当然なのです。
図らずも、自分自身をそのように調教してきたわけですから。
現実に対するリアクション装置としての習性が染みついてしまっていては、意図して望んだ現実を創っていくことなど、出来なくて当然なのです。
では、このやっかいな習性を、一体どうやって矯正していったらいいのでしょうか。
答えは簡単です。
「人を見て態度を変えない」
これだけのことです。
世界に秩序をもたらすためとか、不平の横行を未然に防ぐためとか、そんな理由からでは全くありません。
あなたが意図的に望んだ現実を創造するために、そうするのです。
誰かが、あなたにどんなリアクションを返してこようが、そんなことは関係ありません。
そんなことに一喜一憂して、意図を出したり引っ込めたりしている場合ではないのです。そもそも、そんなものは意図でも何でもありません。
今まではそれが自動化されていたかもしれませんが、その活動はあなたにとって何の利益ももたらしません。今すぐ捨て去るべきです。
難しそうですか?
では、まずは一つだけ、トレーニングとして始めてみてください。
自分にとって、実行しやすいものを一つ決めてください。
何でも良いのですが、例えば上で例として出てきた、
「笑顔でおはよう」
これを、誰に対しても同じようにやってみる。
…見ず知らずの人にまで、無理に行う必要はありませんよ(笑)。
例えばテーマを「会社の人には笑顔で挨拶する」と決めたら、仲の良い同僚や上司以外にも、同じようにやってみる。
仲の悪い人や、嫌いな人にも同じようにやってみる。
相手がどんなアリアクションを返してこようが、
「そんなことは、私にとって何の関係もない。私は今、意図を撤回しないというトレーニングの最中なのだ」
こんなモチベーションでやってみてください。
あなたにとってやりやすいものなら、テーマは何でも良いですよ。
逆に、
「誰に対しても、同じように挨拶しない」
でも構わないわけです。
でも、これは案外難しいかもしれませんね(笑)。
できるだけ簡単なテーマでやってみてください。
やってみると分かりますが、
「自分は普段からリアクションに過敏反応して、こんなにもアッサリと意図を引っ込めていたのか!」
これに気づいて愕然とすると思います。
でも、気づいただけでも大収穫です。
まずは、簡単なテストだと思って気楽に始めてみてください。
結構、病みつきになりますよ(笑)。