第四章 逆転する時間
私達は現実世界において「原因と結果」という事柄を「時間」という直線的な軸にしたがって経験しています。
…そう信じています。
ですが、夢の中でのあれほど一貫性のないバラバラな経験が、目覚めの一瞬で即座に時間線に沿った物語として精妙に組み立てられているのなら、「現実世界は違うよ」とは言い切れないのではないでしょうか。
たとえば、あなたが台所に行って水を一杯飲んだとする。
あなたは時間の流れに沿って台所まで歩いていき、食器棚からコップを取り出し、水道の蛇口をひねって水をコップに汲み、それを喉に流し込んで水を飲んだ。
そう考えています。
でも、本当にそうでしょうか?
本当は「水を飲もう」というアイデアを思いついた瞬間、既に水を飲んでいたのではないのですか?
あなたが台所まで歩いていったり、コップを取り出したり、蛇口をひねったり、コップに水を注いだりしたというのは…
あなたが「水を飲んだ」という事実をもっともらしく裏付けるために、後からつけ加えたものなのではないですか?
それを仮想の時間線に沿ってつなぎ合わせ、さも納得がいくようにつじつまを合わせ、瞬時に組み立て直して解釈しているだけなのではないですか?
つまり実際には時間は存在せず「結果」しかなく、原因やプロセスについては、つじつまを合わせるために「後付け」しているだけなのではないですか?
それを認識上で時間線に沿って並べ替え、時間の信念どおりに解釈し直しているだけなのでは?
つまり実際には、
「原因」→「プロセス」→「結果」
ではなく、
「結果」→「プロセス(錯覚)・原因(錯覚)」
ではないのか、ということです。
もしこのアイデアが本当だとしたら、ACIMやホ・オポノポノの「全ては既に終了(完了)している」という主張にも合点がいきます。
我々は既に終了していることを仮想の時間線に沿って、一定の速度で(錯覚を交えながら)再生しているだけということになります。
もしこのアイデアが本当だとしたら、予知や第六感による直観も何ら不思議ではなくなります。
それらは既に終了しているのであって、それを時間線に沿って逆転再生しているとしても…そして未だそれを経験していないという「フリ」をしていたとしても、「それは既に終わっていて結末を知っている」という事実は覆らないからです。
もしこのアイデアが本当だとしたら、アカシックレコードが存在しているとしてもおかしくありません。
むしろ存在していないとおかしい。
ただしそのアカシックレコードは、無限のバージョンをすべて網羅する形で記述されていることになる。
もしこのアイデアが本当だとしたら、「現実は幻想である」という主張も説得力を持ってきます。
実際には結果しかなく、原因やプロセスは単に「つじつまが合うように」我々自身が捏造しているだけということになるからです。
そして、もしこのアイデアが本当だとしたら…
あなたは願望を実現するために、何もする必要はないということになる。
結果しかないのだから、あなたは単にその結果を選択するだけです。
それで完了です。
そのために必要と思われる、どんな物理的変化も時間経過も、信念の変更もクレンジングも現実的努力も、一切不要ということになります。
それらはつじつま合わせの単なる「後付け」に過ぎないのです。
あなたが結果を選択しさえすれば、それらのプロセスは(あなたにとって必要なら)あなたが納得する形で後から生成されるでしょう。
そして、それらをちゃんと時間という信念に合致する形で経験する(と錯覚する)ことになる。
わかりますか。
もしこれが本当かと思えば、あなたにとって制限はなくなる。
実現を妨げるどんな要因も消え失せる。
結果しかないのだから、あなたはそれを選ぶだけで良くなる。
文字通り自由自在です。
そうしたら、この世界には充足しかないということが分かる。
そして、あなたを苦しめてきた「不足」という仮想概念は消滅するのです。
これが直結です。
直結とは「あいだを隔てないで直接に結びつくこと(広辞苑)」です。
つまり「直に」「結果である」ということです。
直結メソッドとは、
「直に結果であれ」
という実現状態そのものなのです。
これまでは様々な仮想概念や信念を用いて、あなたの意識は結果から分け隔てられていました。
時間、因果、物理的変化、距離、誰かの意向、過去の記憶、自らが自分に課してきた属性…
どれもこれも、あなたが今すぐに望むあなたで「在る」ことを、妨害してきたまやかしに過ぎなかったということです。
あなたはそれらのアイデアを利用して、直結することに抵抗してきた。
そんな必要は何ひとつなかったわけです。
だから、
「今すぐに叶えてください」
「たった今、そうなってください」
「そのあなたは、問題について心配したりしていないでしょ?」
「その過去は、あなたが今、創り出しているんです」
「潔く無視しちゃってください」
「知覚障害を起こしているんです」
「充足を見てください」
「既にそれはあります」
「実際の物理現象としてあるのです」
…というわけです。
第五章 虚偽の前提
…さて、
「願望実現に時間は関係ない」
「それは既にある」
「だから今すぐに直結すればいい」
いきなりこう言われても、じゃあどうやって直結したらいいのかとなると、イマイチよく分かりません。
この「どうやって」の部分こそが問題なわけで、皆それが難しいから色々と手を尽くしているわけです。
そしてますます出口のない迷路にはまり込んでしまう。
実はこれについては「ザ・チケット」の第7章で既に回答しています。
「捜す限り、見つからない」
「捜す」ということは「ここにはない」ということを表明しているのと同じことです。
もし「ここにある」ということであれば「捜す」というプロセスは存在しません。
上に書いた二行について、よ~く熟考してください。
(出来れば何度も何度も読み返してください)
では、もしそれが「ここにある」としたら、あなたはどうするでしょうか。
あなたはそれを手に取ります。
それで完了です。
これが直結です。
これだけのことです。
あなたが「ない」という前提で探し回るから、ますますそこから遠ざかるのです。
「虚偽の前提は虚偽の結果しかもたらさない」というのはこういうことです。
「それはない」という虚偽の前提を採用するから「それはない」という虚偽の結果がもたらされる。
要するに前提も結果もひっくるめて、全てがでたらめだということです。
この「虚偽の前提」を採用している人にとって、直結は難しいはずです。
前提が間違っているのだから、直結はウルトラC(古!)級のスーパーテクニックに思えてしまうかもしれません。
採用している前提が違うため、その人にとっては「あり得ない不可能なことを実行する」ような印象で捉えられてしまうのです。
これは、前を向いたまま強引に首を180度ねじ曲げて後ろを見るようなことをしているわけです。
だから「これは難しいぞ」「そんなの無理だよ!」となってしまうわけです。
ところがこれは難しいことでもなんでもありません。
あなたが身体の向きを180度回転させてやれば良いだけのことなのです。
そうすれば首をねじ曲げなくてもそれは勝手に目の前に見えてきます。
これが最近よく言っている「立ち位置を変える」ということです。
そのために必要なことは?「立ち位置を変える」ことだけです。
いたってシンプルです。
これを「立ち位置を変えるためには?」と考え出すと、もういけません。
「立ち位置を変える」という本来「単なる実行プロセス」であることが、とてつもない困難なチャレンジとして設定されてしまいます。
またしても「虚偽の前提」の罠に落ちてしまうわけです。
立ち位置を変えるためには?
立ち位置を変えればいい。
それでオシマイです。
残念かもしれませんが(笑)、それだけのことなのです。
◆後付の世界
直結とはこれほどシンプルな話なんですが、従来の思考システムに慣れ親しんでいる我々にとって、これは逆に難しい。
あらゆることに対して「それはない」「できない」という前提でスタートするのが慣わしとなってしまっているからです。
あなたが何らかの願望を抱いたとき、まず「それはない」というように前提をセットしてしまっています。
無意識にです。
そして「それはない」「できない」と考えたとき、その理由や根拠は無数に出てきます。
「それはできない。なぜなら…」という形で思考がスタートしてしまうからです。
ですがその理由は、今あなたがそう考えたことによって「今」創造されているのです。
厳密に言うと創造さえされていません。
それはあくまで頭の中で作りだした想定であって、実在するものではないのです。
それらは、あなたが「できない」「それはない」と設定したため、それに付随して発生した単なる連鎖思考に過ぎないのです。
ところがあなたはそれを「絶対的な真実」として支え、もはやそこからの発想しかできなくなる。
そりゃそうですよね。前提が「できない」「ない」なんですから。全てはそれを支えるようにしかなりません。
あなたが最初の段階で間違った方を選ぶから、そんなややこしいことになってしまうのです。
最初に立った場所がハナから間違っていたわけです。
では、お馴染みの実験をしてみましょう。
今から台所に行って、水を一杯飲んできてください。
…できましたか?
実行していない人がほとんどでしょうが(笑)、実行した前提で話を進めます。
あなたはどうして水を飲むことができたのでしょう?
あなたがそれを「できないこと」だとは思わなかったからです。
そして台所に水が「ない」とは思わなかったからです。
実際に台所に行って蛇口をひねれば…あるいは冷蔵庫からペットボトルを取り出せば、水はそこにありましたよね?
それをコップに注ぎ、あるいは直接口に注いで水を飲むことができましたよね?
…水を口から喉、喉から食道、食道から胃へと次々に流し込むことに成功しましたよね?(笑)
それを決して不可能なことだとは思わなかったですよね?
だから成功したのです。
考え方次第では「とても実行不可能で成功が困難な目標」になり得たかもしれない、そのミッションをです。
実際に台所に行けば、蛇口も冷蔵庫もペットボトルもコップも全てあったでしょう?
あなたが「ある」と思ったからです。
別の言い方をすれば「あなたはそれがあることを知っていた」。
だからあったのです。
台所も蛇口も冷蔵庫もペットボトルもコップも。
ですが実際には、それらはあなたが「ある」と考えたから存在したものなのです。
必要な要素は全てあなたが創り出したものに過ぎないのです。
あなたが「水を飲む」という結果に直結したため、後の要素はそれに伴って生成されたものなのです。
「いやいや、あの冷蔵庫は10年も前から台所にあるよ」
「ペットボトルの水は、間違いなく昨日コンビニで買ってきたものだ」
「台所は私が生まれた時からずっとあったよ」
あなたはそう考えるでしょう。
でも本当にそうですか?
どんなもっともらしい証拠を提示したところで、その証拠やそれにまつわる記憶や歴史を、あなたが「今」生成しているのではないと言い切れますか?
なるほど、あなたは確かに水を飲みました。
では、目を閉じてそのプロセスを振り返ってみましょう。
部屋を出て台所まで歩いていき、戸棚からコップを取り出し、蛇口をひねり、あるいは冷蔵庫からペットボトルを取り出し、キャップを開け、コップに水を注ぎ、それを口に持っていき…。
おわかりでしょうか。
台所も蛇口も冷蔵庫もコップも水も、既にあなたの意識の中にしかありません。
もう一度台所に行って、再びそれらの存在を確認することはできるでしょう。
ところがその確認も、あなたの内部で行われていることに過ぎません。
あなたがあなたと関係なく、あなたの外部でそれらの経験をすることは不可能です。
つまり、全てはあなたの内部で起きている意識経験に過ぎないのです。
そして全てがあなたの内部で起きている意識経験に過ぎないのであれば…
どんな経験をするかは全てあなた次第ということになります。
そして実際にも、あなたはそのとおりにしているのです。