☆他者はいない。もしくは、他者とは、己を目覚めへと導いてくれている神の使者である。
それが、今日のワタシが感じていることです。
それは、ひとは「他者は自分の鏡」という言い方をするように、同じことを言い表しています。
それは、他者に限ったことではありません。
起きる出来事、ひと、もの、森羅万象すべてがそうであるといえます。
自分のみている世界を、自分が生きている人生を、そのように(神の使者として)知覚するとき、
すべてが完璧にみえます。
この世はすでに完璧。ゆえに、この世でワタシがすること、すべきことはなにもない、と。
もし、あなたが、「この世は完璧」というふうにみえないならば、あなたはトンチンカンなところ(視点)から、あなたの世界をみているし、あなたはその世界で創りだされた人生を生きているといえます。
ということは、あなたの見方(視点)を変容するしかないということがおわかりでしょうか?
すなはち、わたしたちの感情が揺れるとき、そのとき、それは、この世の完璧さをみていないというサインだということです。
そのとき、わたしたちは、胸のあたりで違和感や苦しみ、痛みという感覚でそのサインを感じているのです。
そして、その胸のあたりで感じている感覚こそが、あなたをこの幻想の世界に縛りつけているところから、
解放へと導いてくれる神の使者なのです。
そっちじゃないよ!こっちに意識を向けて!と、あなたのハートが呼びかけています。
もう、幻想の世界から目覚めるときがきています。分離の世界から目覚めるときがきています。
この世を手放すときがきています。この世を超えていきます。
それは、死をも超えていきます。
あなたがそれを望んでいるのなら、どうぞ、いま、そのハートで感じてハートの声に耳を傾けてみてください。
その声こそ、あなたをふるさとへと導いてくれるあなた自身です。
神の使者は、ここにも、そこにも、どこにも、あなたの内にもいます。
五感で知覚する世界を超え、本質だけをみようとするなら、あなたはその真実を知覚することでしょう。
他者などいなくて、すべて自分だった、と。
この世のすべては、己の投影そのものだった、と。そして、覚者は、認識するのです。
この世のすべては、己が創造していたのだということを。
それと同時に、覚者は、この世で生きる個の自分は神の使者であったことにも気づくのです。
あなたは、まだ、気づいていないかもしれませんが、そう、まさに、あなたこそ、このワタシにとっての、
そして、この世に生きるすべての衆生にとっての、神の使者なのです。
☆楽になりたいのですね。あなたがそれを望めばあなたのなかにすでにそれがあることを知るでしょう。
☆まずは天の国を求めよ。それが、今日のワタシからのメッセージです。
この世のなによりもいまのあなたにとって大切なのは、あなたのこころのなかの平安なのです。
でも、あなたにとって、こころの平安なんかよりも、いまあなたの目の前にある現実(問題)の方が大切なのかもしれません。
「こんな状況でそんな呑気にいられるものか!」
と、あなたは言いたいかもしれません。でも、ワタシはそんなあなたに言いたいのです。
あなたはこころの平安を得ようとして現実であくせくしているのですよネ、と。
なぜ、いますぐ、こころの平安を求めないのですか?
しかも、そのこころの平安こそが、すべての解決法なのに、です。
あなたがたは、まったくトンチンカンなところで現実(問題)を解決しようとしているのがわからないのですか?
それゆえ、終わりなき永遠の魂の旅を続けてきたことにお気づきですか?
そして、この人生で、もうその旅を終わらせるために、あなたはここにいること、そのために、いま、ここに生きていることをお気づきでしょうか?
何のために生れてきたのか?
何のために生きているのか?
どこへ向かっているのか?
そんなことを考える(探求する)ヒマがあるなら、つべこべ言わず、いますぐ、こころの平安を選択するがいい。
それは、いまこの瞬間に、ここに、あるのですから。
神の平安はここにあり。それは、絶対なる平安です。天の国はここにあり。
それは、あなたのすぐそば、距離のないココ、薄皮一枚ほどのところにあるのです。
「こころの平安を選択します」と、ただあなたが決めたらいいのです。
ただ決めるだけ。たーだ決めて、ハートで感じてみるがいい。安らぎは必ずそこにあります。
どこにもいかず、ソレはずっとそこにありました。
ホントの安らぎはそこにしかありません。
マスターよ!この世の幻影のなかを旅して来た者よ!あなたの意思で選択するがいい。
ただ決めるだけです。もう、旅は終える、と。私は、いまここでくつろぐ、と。
それがこころの平安を選択することであり、神を選択することでもあるのです。
☆「私」というとき、それは、この世界とこの世界のなかにいる自分すらをも観照(観察)している意識のソレ、
のことを云ってい。ゆえに、その「私」はこの世界にはいません。
「私」とは、この世のものではありません。
「私」とは、「私」を意識しているソレです。
なんども、なんども、ワタシは言いましょう。
あなたは、人間(というからだ)ではない、と。
たぶん、そう云ったとしても、たとえ頭でわかっていたとしても、それでもあなたがたは、人間(肉体)としてのからだを自分と思い込んでこんで生きています。
そうなのです。永く人類が引き継いできたカン違いを、変容(修正)していくのは、あなたの意思と選択が必要なのです。
でも、それはそんなムズカシイことではありません。
あなたがいままであなたの真実としてきたものを修正するだけなのです。
「私は人間である」というあなたのこれまでの真実を、「私は意識のソレである」と、あなたの真実に決め直すだけでいいのです。
たったそれだけ。こたえはシンプルなのです。
さて、あなたが、あなたの真実をそう決め直したとき、あなたは気づくのです。
この「私」とは、いったいナニモノか!?と。
ほかでもない。
その「私」こそが、あなたが神、もしくはこの世界、この宇宙の創造主と呼んできた存在なのです。
わたしたちは、その存在をあなた(自分)の外にいると思ってきました。
特に宗教の世界では、そうでした。そして、自分を卑小な存在だと思い込んできたのです。
あなたはその呪縛から解き放たれるときが来ました。
あなたを縛りつけてきた張本人は、あなた自身でした。
あなたを制限してきた張本人は、あなた自身でした。
もう、あなたがあなた自身を縛り続けるゲームに、あなたはウンザリしています。
やがて、あなたは気づくことでしょう。
この(外の)世界にはいろいろな不思議なこと、ものがあるけど、そうじゃなかった、
この「私」こそが最大の謎である、と。この世の何よりも、「私」こそが不思議。
この世の何よりも、「私」こそが神秘。「私」こそが、この世の最大のナゾである。
そう、この世の最大のナゾに、人生を賭けた存在たちが人類の歴史上に多々いたのです。
彼らは、覚者と呼ばれるひとたちでした。
2500年前のゴータマ・シッダッタ、そして、2000年前のイェシェアも然りです。
そして、かくいうワタシも同じ道を歩む者です。
マスターよ!真理の体現にしかこの世に生きる価値を見い出さない者よ!
あなたがたは、ワタシの兄弟姉妹です。
この世の何よりも不思議で神秘なるあなたへ。
☆知りたい。幸せになりたい。豊かになりたい。あ~なりたい、こ~なりたい、というふうに、
マインド(思考)は、その願望を実現させようとする飽くなきゲームを輪廻して遊んでいるのです。
ゆえに、あなたがたは、永遠にそれになることができないでいるのです。
いやいや、あなたがたはそれすらも楽しんでいるのです。
それすらも楽しんでいる。
そう、なにが云いたいのかと申しますと、深刻になることなかれ、ということ。
わたしたちは、楽しんでいるのです。楽しむために、この世にいるのです。
さらにいえば、この世は、天界です。あなたの知覚が正常に戻れば、それは明白になります。
それを、ワタシはアセンションと呼んでいます。
アセンション、というそれすらをも楽しんでいるのです。遊んでいるのです。
さて、それを経験するためにいまこの時代にいきているあなたがたは、それゆえ、その真相を、実相を、真理を知りたい、と思っているわけです。
ワタシは、あなたがたに言いましょう。
知りたいと思う必要などナイ。なぜなら、あなたはすでに知っているのだ。
幸せになりたいと願う必要などナイ。なぜなら、あなたはすでにそうなのですから。
豊かになりたいと願う必要などナイ。なぜなら、あなたはすでにそうだから。
それでも、あなたはワタシにこう言いたくなるのです。
私は知りたい。なぜなら、知らないから。
私は幸せになりたい。なぜなら、幸せでないから。
私は豊かになりたい。なぜなら、豊かでないから。
そう、おわかりのように、あなたは、いま、知らない、幸せでない、豊かでない、、、
ということをすでに実現しているのです。
わたしたちはこれまでも、それすらをも楽しんできた。
でも、時代はもうその終わりのときを迎えています。
あなたも、もう、それを望んでいます。
なる、のではなく、ただそうあるだけでよいのです。
知っている。幸せである。豊かである。
実現しようとすることは、すでにそうであることを否定し、抵抗しているということ。
それが、マインド(思考)の習性なのです。ひとはそれを自我(エゴ)と呼んでいるのです。
マインドの抵抗を、いま、手放して、あなたのマインド(思考)と論理に見切りをつけて、その状態に屈するがいい。「知っている」に屈するがいい。「幸せ」に屈するがいい。「豊かさ」に屈するがいい。
神に屈するがいい。
そして、ワタシは今日もこう祈るのです。
神よ、父よ、ワタシはあなたにすべてを明け渡します、ワタシはあなたにすべてをゆだねます、ワタシはあなたに屈します、と。
すべては神の思し召すままに。
☆真理には、理屈、理由、目的、意味、などがない。ただそうだから、そうであるだけのこと。
だって、そうなのだから、としか言いようがない。
真理に目覚めた者は、みんな、そうなるのです。
しかも、それは、だれもの内にあるもの。
*
☆いま、あなたの現実に起きている混乱は、あなたの内面がただ浮き彫りになっているだけです。
それは、あなたの人生においてさらに加速されていることでしょう。
惑わされることなかれ。それどころか、歓迎して歓ぶがいい。
あなた自身には理解できなくとも、それは、あなたにとって完璧なことが起きているのですから。
そう、それは理解できなくてもいいのです。
頭(思考)で理解しようとするとき、それは明らかに混乱にみえます。
そう、あなたのその混乱はよろこばしいことなのです。
できることなら、わからないまま、その思考を手放して、ただ己の人生を信頼してゆだねてみるがいい。
そのとき、あなたはいままでにみたことのない視点から、ものごとがみえはじめます。
そして、あなたは気づくのです。
私は自分のマインドの思い込みで、自分の制限のなかですべてをみていたのだ、と。
その気づきが、あなたにやってきています。目にみえる世界に惑わされることなかれ。
それよりも、目にみえないものに着眼してみるのです。
自分にはわからないけど、自分にとって必要な何かが起きている、というところからみるのです。
それが、意識の移行(シフト)というものです。
混乱の向こう側に渡れよ。彼岸の向こう側に渡れよ。
それは、いま、あなたに起きています。どうぞ、そのことを自覚してください。
*
☆感じる、ということは、からだ(肉体)があってのものです。
逆に、この肉体がなければ、感じる、ということはできません。
ゆえに、感じる、ということは、人間であることの特権だ、ともいえます。
なにがいいたいのかと申しますと、ひとは、生身の人間で生きていることのすばらしさを悟るとき、
わたしたちは、たえまぬ神の愛とギフトを受け取っているのだいうことを知るのです。
生きなさい。泣きなさい。笑いなさい。
それがどんな人生であろうと、それはあなたにとってすばらしき体験でしかないのですから。
いずれにせよ、いつのときか、あなたはその真実を悟ることになるのです。
さて、アセンションということばを使うとき、アセンションとは、この世界ではない、どこかのすばらしい世界に移行(シフト)することだ、と、あなたは思い込んでいるかもしれません。
でも、そんな、あなたがたにワタシが申し上げたいのは、天国はすでにあなたの目の前にある、
ということです。
そして、真のアセンションは、いま目の前にある世界を、いま目の前いる人を、いまここに生きている自分自身を、そのすべてをただひたすら愛していくこと、それでしかあり得ないのだということをお伝えしたいのです。
それは、人生のすべてを受け入れていく、それでしかないと言っているのです。
もし、あなたがアセンションを望んでいるのならば、、、です。
あなたの人生に起きているすべてを、あなたは受け入れることができるだろうか?
もし、あなたが真の幸福、平安、自由、歓びを望んでいるのならば、
どうぞ、いまある抵抗を手放して、防御をやめて、戦うことをあきらめて、いまのありのままのあなた自身を、受け入れてください。いまあるあなたの人生を、どうぞ受け入れてください。
これが私であり、これが私の人生なのだ、これでよかったのだ、これでいいのだ、と、ただただあなたのすべてをゆるして受け入れてみてください。
それを、神に明け渡す、神に委ねる、神に屈する、という言い方でワタシは云っているのです。
あなたは、ずっと、そうすることから逃れてきました。
なぜなら、それは、あなたの死を意味するものだったから。
そう、あなたは、ずっと、そうなることを怖れて生きてきたのです。
もう、いいんだよ、お疲れ様、と、どうぞあなた自身に言ってあげてください。
そのとき、あなたに、ゆるし、はおとずれることでしょう。
そして、それこそが、真のゆるし、なのです。
どうぞ、いま、その、ゆるし、を感じてみてください。
もう、いいんだよ。と、ことばに発するあなたのその声を、あなたの胸のあたりのハートで感じてみてください。
生身のからだ(肉体)でしか、感じられないその感覚を感じてみてください。
そして、あなたも、その人間として、そのからだ(肉体)で、いま生きているのです。
あなたは、それを自ら望んでいまここにいる、のです。
いまあなたは奇跡と神秘の真っ只中にいることを、いまいちど思い出すがいい。
それが、今日のワタシからあなたへのメッセージです。