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備忘録

108★充足を見る

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108★充足を見る

> 108さんの考えでは「充足をみる」と「感謝する」では同じですか?

あなたが充足を見ようと思ったとき、

「なんだよ。なんで望みと違う、既に持っている事柄に対して充足を見なきゃなんないんだ。
 でも充足を見ることが願望実現のための条件なら仕方ない、見てみるか」

こういう状態なら、あなたは充足を見ていません。
したがって当然感謝も出来ないでしょう。

あなたがコップの例えを持ち出したので使わせてもらうと、
あなたが「コップに水が半分しかない」と思っているのに、
「コップに半分も水がある」と思おうとしても無理。

既にコップの水を不足の観点から捉えているからです。
つまり二元性の観点から一歩も出ていないということです。

※これはポジティブ思考を行おうとするときにも良くある落とし穴だから気をつけて

これを回避するには、なんの予断なく、ただそのまんまで認識することです。

「コップに水が半分入っている」

これがそのまんまです。
「も」も「しか」もありません。

「コップに水が半分入っている」

ただそれだけです。

この認識をベースに、ちょっとだけ歩を進めましょう。

「コップに水が入っている」

これでも良いですよね。量は関係ない。

「コップに水が入っている」

あなたがこう認識した時点で、あなたの経験にコップと水が入ってきた。
あなたは、

「コップに水が入っている」

という経験をした。
あなたはコップでも水でもないのにも関わらず。

なぜ?

あなたはコップも水も認識できた。
それがあなたの意識の範囲に入ってきたということは、
あなたは「コップと水を持っている」ということです。

※「購入したので所有権を有している」という意味ではありません

あなたの意識に入ってきて認識したものをあなたは経験している。
あなたが経験しているということは、それは紛れもなくあなたのものだということです。

もう少し具体的に行きましょう。
あなたが街でベンツを見かけたとする。

「これは私の欲しいベンツだが、誰か他人の所有物のようだ。忌々しい」

とエゴによる所有権のアイデアを持ち出して充足を遮断するのか、

「これは私の欲しいベンツだ!なんて重厚な色合いと風格だ!素晴らしい!」

と、ただ単にそれが経験の中に入ってきたことを喜び、経験として所有できたことを喜ぶのか。

実際に一般的な意味でベンツを所有することに近いのは後者です。
なぜならもう既に所有したのと同じメンタリティになっているから。

これが充足です。
その上で最初のご質問に戻ると、充足と感謝とはセットです。
それは不可分です。

充足を見るということは、一般的な意味での所有権の確認ではない。
それを見るということは、それを自分の経験として招き入れるということであり、
所有権というエゴの概念をすっ飛ばして、直ちにその経験に突入するということです。


「充足を見る」ということは、何も特定の事柄に対して、
「所有権を確認して無理矢理満足する」ということではありません。

別の領域から見れば、実際にはあなたは既に全ての願望を実現している。
つまり、実際には望むものを全て持てているのです。

ちょっと思いついた些細な願望や、世界を巻き込んだ大それた野望、
「あっ、このドレスかっこいいな」とショーウインドウで見かけた素敵なアパレル、
田園調布の一等地にある大豪邸、高層マンションの最上階にある超高級住宅、
見ているだけでため息が出るような最高級外車、
10桁の預金残高が記されてある預金通帳、持ちきれないほどの札束、
「なんて素敵なんだろう」と、ため息が出るような映画女優の美貌、
誰もが憧れるトップアスリートの運動能力とステータス、
世界的に著名な天才的映画監督の才能と手腕、
20代で財をなして、今や大富豪の仲間入りをしたネットビジネスの大家の才覚、
美しく壮大な大自然の中で暮らす、悠々自適の生活…

これらのことを、あなたも見たり聞いたりしたことがあるでしょう。
つまり、あなたの意識の中に入ってきたことがあるはずです。

それなら、あなたは既にそれらを持っている。
あなたの意識的体験に入ってきたということは、
紛れもなくあなたはそれを持っているということです。

ところがエゴの認識内では、

「それは『持っている』ということにはならない」

と言うことが出来る。
「所有権」というアイデアを活用して、持っていないことに出来るのです。


では、次のことを考えてみてください。
あなたが車を運転していて、たまたま前を行く車のナンバープレートが

「1111」

だったとします。
(パチンコが好きな人だったら「7777」とかでも良いですよw)

この時あなたは、

「おっ、ゾロ目だラッキー!なんか良いことがあるような気がするぞ」

と思ったとします。
(こんな経験は誰でもお持ちだと思います)

この時、あなたはその車を所有しているわけでも、
そのナンバープレートを所有しているわけでもありません。
でもあなたはラッキーだと感じ、嬉しい気持ちになった。

なぜですか?

この時あなたは、エゴの「所有権」というアイデアを無視して充足を感じているじゃないですか。

同じようにあなたの見ているテレビに、あなたの大好きなタレントが登場したとします。
あなたは大喜びして充足を感じます。
あなたがそのタレントを所有したわけでも、そのタレントが実際に目の前にいるわけでもないのに。

なぜですか?

実際にはテレビ局から送信された電波信号に従って、
ブラウン管なり液晶モニタなりに、ある特定の映像パターンが映し出されているに過ぎません。

あなたが聞いていたラジオ番組に、大好きなタレントがゲストとして登場した。
あなたはウットリとしてその声に耳を傾け、充足を感じます。
ところが番組の途中で、その声の主が本人ではなく、
物まねタレントの声マネによるドッキリであったことがばらされます。

じゃあ、あなたがそこで感じた充足は一体何だったのですか?
自分の信念に応じて、充足を呼び起こしただけのことじゃないですか。

あなたの買った宝くじの当選番号発表日が来たとします。
あなたは手持ちの宝くじの番号を、新聞なりウェブなりで当選番号と照合します。

「…なんと!やった!!一等だ!二億円が当たってるぞ!!バンザーイ!!!」

この時あなたは、実際に二億円を手に入れたわけでもなんでもありません。
手持ちのクジと当選番号とを見比べ、特定の数字が一定の順序で並んでいることを確認し、
それぞれが同一パターンで一致していることを単に認識しただけのことです。

…もういいでしょう。
要するにあなたは、普段は特定の条件下、つまり
「所有権が確認された場合」に限り、充足を経験することを許しているように思うけど、
よくよく見ていくと必ずしもそうではないということです。

所有権というのは充足のための絶対条件ではない。
それは充足を限定された状況下でのみ経験しようと決めた、
エゴの単なるアイデアです。

反対に、充足は何らかの条件によって限定されているものではない。
むしろあらゆる限定から自由なものです。
それなら、あなたが設けた限定条件を自ら外せば、
あなたは直ちに充足の経験に入ることが出来ることになる。

いろいろ書きましたが、要するにあなたが考えたことは正しいのです。
上に述べたことを頭に置いて、自分が既にどれだけ充足しているか再確認してみると良い。
そうやって自らの充足に気付く度合いにしたがって、
所有権というアイデアを通してさえ、充足の経験は避けられないものになります。
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