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備忘録

捻くれ式 0

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捻くれ式 0

願望と実現がまさに一体だから、待ち望むというのはおかしい


結構前のことなのですが、私にとっての全ての答えは、チケットの序章にあったんです。
(灯台もと暗しとはこのことですよw)

「願望はそう簡単に叶うものではない」
まさしくこれが、私自身の『願望』という概念に対する定義でした。

今までこちらで幾度か認識の変化の過程と、その過程で思いついたメソッドを報告させて頂いてきました。
やっぱり7章なんだな、と行きついたのは行きついたのですが、108氏の言う事全てが
理解出来たわけじゃなかったし、どうしても腑に落ちない部分もあったんです。

「快で居る事は大事」と書いた。快であることはデフォルトだとも。
でも快でいてもいなくとも、願いは叶ったり叶わなかったり。
うまくいったりいかなかったりの波は、やっぱり小さいながら私にもあった。

そこをいちいち判断するなと108氏は仰るわけですが、
結局叶う願いなんてないのだろうか、偶然や運命の範疇なんだろうか。

1年間じっくり時間をかけて自分の願望の実現を見てきても、
やはりコントロールに傾注してしまう部分が私の中にありました。
というより、ずっとずっと、謎を解き明かしたい、という気持ちが私の中にありました。
「引き寄せ」という考え方そのものに対する疑問です。

そしてある日、チケット序章を思い出して「おや?」と思った。(※以下、あくまでも私の場合です)

メソッドをすること・引き寄せの法則を知って活用しようとすること…
これらの行動は全て「願望とはもともと実現困難だ」という概念に支えられていたんじゃないか?
だから私は今まであらゆる方法で『叶える方法』を追い求め、生きがいを感じていたのでは?

叶わない・引き寄せなど出来ない、というレスに対して、「いや!叶うんだよ」と無性に
反論したくなる気持ちがあったのも、現実はコントロールできませんという108氏の言い回しに
かつて憤ったのも、全てこの概念が、変更不可能なものとして私自身を突き動かしていたからでは・・・?

「願望とはもともと実現困難・不可能なものだ」

この、私自身がいつ信念としたか分からないくらいに巧妙に隠された
このスレにいる方たちほとんどが、当たり前だと思えるような概念によって
私は努力を強いられてきたのだと気付きました。

そしてチケット1章の冒頭部分と、
108氏がいつも言ってる「充足に包まれている」という言い回し・既にある、がハッキリ繋がった。

そうだ、水を飲む事、寝る事、テレビを見る事…自分の特定の欲求を充たすという願望実現に他ならない。
だが私はそれを「願望」と認識していなかった。

そんな誰でも出来る簡単な事は願望とは呼べない!願望実現の例だと認めない!
(つまり「私にとっての『願望』とは、簡単に実現しないものだということですね)

でも願望に種類が無いとしたら、際限が無いのだとしたら。(ここはクレ氏も仰ってます)
特に意識しなくても、私は特定の欲求を満たしている。実現している。

もしかして、願望とはもともと叶うように出来ているのじゃないか?!
なら、何のためにメソッドをしているんだ?!
うまくいく方法とダメな方法を見分けろ?!
瞑想すれば?!快にならなければ?!ハァ?!

そんなこんなで、今までの108氏のコメントが(これまたクレ氏と同様に)同じに見えてしまったのです。

「願いとはそもそも実現するものだ」
私には、彼がたったこの一言の視点からずっと物事を見ていただけだと感じられた。

上り下りの波の中、潜在意識、瞑想、バシャール、エイブラハム…
あらゆる事をして「願いを叶えよう」とやってきた過去。
チケットを一番最初に手に取った時で「これを使えば不可能が可能になる」、そんな心境だった。

上り調子の時は、つかの間の幸福や安堵感に身をまかせつつ、失う恐怖にさいなまれる。
でもそのたびに「大丈夫!実現方法があるんだから!無くしてもまた手に入れられるよ!」
そう自分を励まして生きてきた。

しかし願ったことは手に入ったり入らなかったりで、私はますます
「願いとは叶わないものだ。でも実現方法をがんばれば、叶う確率が上がる」
そんな信念を補強していっていただけなのでした。

で、これに気付いた後は早かったです。
願望と実現がまさに一体だから、待ち望むというのがそもそもおかしい。
7章にあること今、そのまんまを体験し続けています。

沢山揃えてあった実現方法を書いた本は、全部古本屋にいきましたw
そのままの意味で、何も必要ないのでした。メソッドをすることすら、本当に。

「叶わない、引き寄せなんてそもそも無理」こんなレスに、ずっと昔は反論したくなっていたけど
(まさしく私の【願望】に対する信念をずばり言い当てられて、その信念を否定しようと
していたからでしょう)今はまるで他人事のように感じられる。

方法を一生懸命考えているレスも、まるで遥か昔に起きた出来事のように見えてしまいます。

最近の流れを少し拝見したところ、かなり気付いておられる方多そうなんで、
もう分かってるんだYOって方はそのまま自由でいてください。

でも実現への渇望や、義務感に疲れ切った貴方は、そろそろメソッド探しや、
自分に適用出来ているかどうか、それそのものを疑ってみるのもいいかもしれない。
その行動の動機がどこから出ているのか、もし私と同じく「願いは叶わないものだ」
というものから出ているならば、その信念そのものを疑ってみるのもいいかもしれない。



願望=実現という認識からは、叶えるためという前提は成り立たない


「何もする事はない・いらない・快や自愛も条件の一つ」

つまるところ私にとって「認識の変化」こそが全てでした

7章、一体そこで何が起きていたか?
なにもする事は無い、という認識の変化を起こす 必 要 があった。
(必要という表現を用いるのはまた語弊を招きそうなのですが、あえて書きます) 

108氏がどれだけ口酸っぱくなるほど「認識の変化」という表現を用いているか、
私は最初気にもしなかったのです。

私が一番最初にチケットを手にとったとき、7章に感動しました。そして…
「7章を隠れ蓑にして、認識の変化を起こす事をしなかった」
既にある、を実現させるために用いていただけです。

お陰さまで「全く無いじゃないか!」を沢山体験しました。
何もいらない・することがいらない、という文字通りの表現を真に受けて、
結局何の変化も得られずに、また得るために頑張る今まで通りのやり方に戻った。

271さんも、それからこのスレの最初の方で、
7章認識なら「自愛」とか言うのはおかしいって仰ってる方いますよね。
私も一番最初、それに関して108氏に同じ疑問を持ってましたよ。
でもよくよく思えば、私の中でその疑問が沸いたのは結局
「メソッドを実現方法としか捉えていないから」でした。

(もちろん貴方方が私と同じかどうかは知りませんが)


私は最初の頃から「叶えるために」という思いの扱い方に手を焼いた。
捻くれメソは、その「叶えたい」という思いを逆手にとったれ!
というアイデアから出ました。

矛盾するようですが、「叶えたい」という強烈な想いは執着と表現される事もあるけれど、
私はそうは思っていない。それは時として自分自身を突き動かす原動力にもなり得るからです。
不足はもういらないと真実に気付く切欠にもなる。

だからあえて「叶えるために」という縛りを付けて、「自愛・快」を薦めた事もありました
(ここは過去に説明してます)そうでもしなければ、強烈に不足に注目している自分を
真実の自分であると思い続け、永遠に実現方法探しをする人もいるからです(まさに私自身)。

皆さんがどれだけ質疑応答を読んでいるか分かりませんが、
私が感じる限りでは、108氏は常に7章の認識からレスしてました。

認識の変化を促すために、手を変え品を変え、人によって表現を変えて伝えてくれている。
それに質疑応答のまとめで、本当はメソはいらない、でもそれに至る過程は様々だし、
チケットの基本枠組みは、認識の変化をもたらすものだと仰ってます。

私の言葉が語るまでもなく108氏は全ての疑問に答えていると思ってますよ。

あと確かに前スレの書き込みは、7章認識でオートマで人生が進む事に改めて
「なぜ?」の疑問をぶつけ、実現していく中で自分の中に答えを見つけた結果でもあります。

理由の後付といえばその通りだし、結局叶える事は出来てたが、当時は7章の仕組みを
理解してなかったんだろと言われても、貴方方の私に対する認識に添えずスイマセンとしか言えないです。
(当時は、未だに山あり谷ありの部分もあるとも書いたと思います。

叶う現実に対し、エゴで理解を求めていた時期だった気がしますね)
今も完璧に理解できてるかどうかわかりませんし、私は私なりに108氏の言うことに
自分の解釈を付けて悦に入ってるだけ、といえるでしょう。



意図に関しては、私はこの表現自体がかなり多義的で人によって定義が異なると感じてます。
最初の頃は「強く願う事=意図」だと思ってましたが、私にとっては違ったようでした。
今は願望という形で追いかけなくとも、勝手にすぐに現われてくる、というだけなので、
願う事すらしないという意味はそのままとって下さい。

内面の投影に関しては、私は「引き寄せの法則」という概念を支えるシステムの一つに
過ぎないと思ってます。投影されてる事もあるかもしれないし、無いかもしれない。
都合の良いように解釈して使うなら使えばいいし、使わなくてもいい。
そんなとこです。

以上、あくまで私はどう思っているか、という視点から書いてます。
異論あると思います。

でもおかしいと思うならば、是非の議論ではなく、自分で納得のいくように実践をお願いします。
ぶっちゃけ顔も見えない人間が書いてるんですから、イチイチ真に受ける必要も無いw

私にとってこれが今のところ一番ラクで何もしなくても
「願いが叶うし、願い以外も叶う」生き方だから、この認識を用いているというだけです。

「どうすれば?」というレスに対しては、「こうしてみればどうだろう」という姿勢だったし、
昔はもう少し、7章って素晴らしい!ぜひここへ来て!という思いもあったんですけど、
今は全然無いのでw

役に立ちそうなとこがあれば使ってみてください。

一応予想される質問の回答も。
「認識の変化を保つ」ことは、クレ氏が素晴らしいレス付けてるんでそっちを読みましょう。

ちなみに「認識の変化が必要」という考えすら不要では?というツッコミきそうですが、
実際に私の中で起きたことは「認識の変化」以外、的確な表現が見当たらないので勘弁してください。

ここはどう説明するのか難しいですねぇ。
「必要」という言葉への一般大衆の定義が、強制力や条件に繋がりやすいだけなんだろうけど。
この辺のことは108氏のレスでも読んでみてくださいな。

長くなりましたが、>>271さん
貴方は自分にシックリくる情報を取捨選択してください。
「いらない」に対して申し上げるとするならば、「叶えるために」は正直いらない。
だが「認識の変化」それのためであれば…あると思います。

うまく伝えられたかどうかは分かりませんが、私自身の
願望=実現という認識からは、叶えるためにという前提は成り立たないだけです。



喜びをどう定義するかによりますが、
一瞬一瞬が激しい歓喜に包まれてるかといえばそんなことは全く無い。

今までの人生は、基本的に毎日が土砂降りの雨、たまの晴れ間を待ち望み、
晴れれば狂喜乱舞、でもいつまた雨が降り出すか怯えていた。
今は「今日も空は青いな」こんな感じです。
伝わりましたかね。


以前の悩んでた時と今の考え方を教えてください

( 前に書かれた自分の気持ちを大切にってレスは、いらないってことですか?)
いるかもしれませんし、いらないかもしれませんね。
何度も言いますが、それらは「認識変化への切欠」に過ぎない。

かつて叶えることに一生懸命だった私は、自分を大切にすることなど思いもしなかったわけです。
「叶えることが全て」なのだから、叶えていない自分を鞭打っていた。

本来は、自分を大切にしないこと自体が在り得ない。
そんなことはそもそも不可能だったと思い知るわけです。
で、そのような認識変化への切欠に「自愛」だ「快」だがあるわけです。

貴方の認識がどのように差し変わっているかは分かりません。
貴方が108氏やクレ氏のレス、それから拙い私のレスですら全て「叶えるために」という
メガネで見ていると仮定すれば、それは「願望=実現」の私の認識、そこからしているレスと
ずれてくるかもしれません。でも必要かどうかは自分の感覚で判断してください。

>>301
それでいいんじゃないでしょうか。切欠は何でもいい。

>>306
以前は「頑張って得る」ことに夢中だったわけです。
鶏が先か卵が先か、みたいなもんですね、当たり前のように「得るためには~しなければ」が
私の中にいたので、それに従って生きてきた。今思えばそれも楽しかったですよw

所詮はエゴの手のひらで…とは言われそうですが、勝ったり負けたりするたびに喜んで泣いて。
思うようにはいかないそれが人生だ!というのが当たり前だったので、
それに忠実に生きてきましたから。

チケを手にする動機すら、幸福獲得ゲームの選択肢だったわけですw

この世に生きること、といわれても今はピンとこないですが、
(これは108氏向けの質問w)私自身は「先を憂うこと」をしなくなりました。
血みどろになって幸福を獲得して、今度はどうやって維持するか。
失ったらまた頑張らないといけないのか。

そういう思考で今までかなり精神をすり減らしていましたから、
それが無くなっただけで相当「生きること」が楽しいと感じてます。

つまり生き易くなりましたね。



因果関係を求めない、何を考えていようが構わない。

疑念があるからこうだ、とか無いからこうだとか、そういう判断の外に出てみる。
意図したのに撤去された…なんでだろう。そんな風にメソッドと現象化を結びつけることを止めてみる。

徐々に因果関係を求める姿勢から、何を考えていようが構わない、
そういう姿勢へ移動してみて。

貴方は段々思考を管理することから解放されていくことに気付く。
管理することを止めたのに、なぜか不愉快な出来事が起きなくなってきていることに気付く。



メソッドを使えば現実が思い通りになるんだ、そういうメンタルだと私はとてもしんどかったので。

メソッドも意識的な思考管理も何もしていないけど上手くいっていいよね、ってことです。

ただ貴方は今、どういう経路を通っていても上手くいってるのですよね。
ならそれをもっと評価すればいいと思います。




色々悩んだり考えたり、でもそんな心境でも外側の世界は
勝手に上手く整ってくれている、そういう風に心の持ち方を変えてみる。

良い観念・悪い観念も無い。最初から中立です。

しばらく何も考えない心地良さを味わってみて。
すると、悪いサインだ、良いサインだ、いちいち判断しないで淡々とやり過ごせるようになる。
徐々に「思考すること」を恐れなくなる。


素朴な疑問だけど、捻くれさんの以前の大願は成就したの?

まだ実現に一生懸命だった頃、Aを願ってBが来たんだけど(^ω^;)オイオイ的な
事象が起きたことについてついてここに書いたと思います。

そしたら結果的に1ヶ月後くらいしてAとB両方ゲットしました。
そういうことが続いて「あれ?特に願ってないけど良い事って常に起きてるじゃん」
と思うようになりましたね。



不安ざわざわ横レス便乗しますが、禿しくザワザワして、こちらから回避できない状況にある…


私も同じ様な状態だったけど、諦めたって言うか放置しといた。そしたら少し楽になったよ。
あーざわざわしてるな仕方ないなって。感じきるとかも止めた。本当もう何にもしなかった。

結果が出るって思ってだけど単にざわざわから出た結果なんだって自分で思い込んでるだけ
なんじゃないかって自分自身の考えについて疑問を抱き始めたから。



>弱気が負を引き寄せたのかもしれないし
>悪い事なんて撃退する!

もっとニュートラルでいてもいいかもしれません。
弱気が負を引き寄せる…この2つはどう関連しているんだろう?
物事の良い悪いを決めているのは誰?

ギャンブルで負けた→そもそも勝てるほうが…と理由付けや正当化もいい。
でも、ちくしょー!と発散したっていい。

柔らかく柔らかく。
してはいけない事は無い、しかしする必要がある事もない…
(そう実感すればするほど、貴方の中で義務感や罪悪感の放棄が起きている)

一度分析すら放棄してみる。
事象は常にニュートラル。貴方もそれに対してニュートラルでいてみる。
すると何もしなくても、が分かるかもしれない。分析しよう、撃退しよう身構えることが無くなる。
関連付けの放棄ですね。



(何も考えない、ということをやっていて、何も行動していないのに、
好きな人との間に良い方向に驚くべきことが起きました。)


現実的対処と(いわゆる)引き寄せを分けることは別にいらないと思います。
意思の力だけでなんとかしようってのは違う。それは、今までメールや電話をしていた手段を、
スピ的手段に置き換えただけで本質的には何も変わっていない。

あまねく全てが、貴方が引き寄せたもの、と考えて良いんです。
貴方が一番思うことを実行してください。
嫌だと感じるんですよね、だったらその気持ちにしたがえばいい。



思考を止める、ってのはいいですよ。
単なるメソッドとして思考を止める、があるんじゃない。それは本来あるべき姿なんです。
(ここで指す思考っていうのは、思い悩む、あれこれ憂慮するってのを想定してね)

最初は怖いし、意思の力が必要かもしれません。
でもまた108氏が何度も仰ってますが、現実が貴方に何かを仕掛けているのではない。
現実を見て、そこから湧き上がる貴方の思考、それに伴う感情を味わうのが怖い。
思考をちょっとずつでいいから止めてみてください。

108氏の言葉をもっと振り返ってみて欲しいですが、
現実ってのは、何が起きているか、じゃなくて何を感じているか。
主体を置く部分は、貴方の感情ですね。

少なくとも、クレ氏は「なった」ときに「でも現実は・・・ハァ」なんていう思考をしてないわけです
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