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備忘録

リアクションマシン化対策

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リアクションマシン化対策

① 現実のリアクションマシーンとは

ちょっと前に自己観察さんも書いていた事だが、我々は常に毎瞬毎瞬「○○丸々な私」を選び続けている。
店員の前では「客らしい私」を選び、上司の前では「従順な部下」を、
彼氏の前では「可愛らしい私」を選ぶ。

あなたが選んだ「○○丸々な私」があなたにとって好ましいものであるならば、何の問題もない。
しかし、あなたは現実によって、記憶によって、そして「つくられた私(=自我・エゴ)」によって、
理性によって、「頭の中の声」に従って、好ましくない「○○丸々な私」を選ばされ続けている。

記憶というストーリー、それがあなたにとっての現実という事だが、それに基づき、
「お金のない私」「恋人のいない私」「太っている私」「就職してない私」などを
絶えず強いられて選ばされている。これが現実のリアクションマシーン状態だ。

ここから脱出するためには、あなたが現実を見ても不都合な「○○丸々な私」を選ばなければよい。
「それが難しいんだよ!!」と思うかもしれないが、実はそうでもない。


② 効果が実感できない理由

自愛をやっても「なる」をやっても自己観察をやってもなんかしっくり来ないと感じるのはなぜなのか。
「現実を見ないなんて無理!」なのはなぜなのか。

その最大の理由は、
あなたが「現実」というものに対してあまりにもリアリティを持たせすぎている事だ。
現実を「確固たるもの」として絶対的な信頼を置きすぎているのだ。

「んじゃ、なんだよ。永遠に妄想の世界で生きればいいっていうのかよ?」
と、あなたは思うかもしれないが、そうではない。

では、どうすればよいか?

「現実」と「記憶」からリアリティを取り除いていけばいいのだ。



③ 現実からリアリティを取り除く?

現実からリアリティを取り除くとはどういうことか?
別の言葉で言えば、「現実を疑う」という事だ。

「現実を疑うって言ったって、実際に財布にはもうわずかにしかお金がないんだよ。
銀行にも貯金がほとんどない。通帳をみればわかる。これは確固たる事実なんだ!」

あなたはそう言うかもしれない。でも俺は言わせてもらう。

本当に入っていませんか?
その記憶は本当ですか?そもそもそれは本当に財布ですか?
それは本当に通帳ですか?

あなたは本当に対象を正確に把握してるといえますか ?

デバッグを読んだ人ならもうわかると思うが、知覚不全の話だ。
例えば、客観的事実というものがあるとして(実際はないのだが)、それが
マスコミを通すと偏った情報として伝えられるようなものだ。
あなたはこの偏った情報を「エゴの知覚」を通して経験する。

上手くいっていないと感じているあなたなら、すくなくともエゴを手放すまでは
エゴの不完全な知覚を通して現実を把握するしかない。残念ながらその不完全な知覚では、
何一つ正確には把握できない。その断片は感じられるとしても。

だからこそ、あなたは目に見えるものすら疑ってかかるべきなんだ。
だからこそ、あなたは耳に聞こえるものすら疑ってかかるべきなんだ。


④ 疑うと信じるの相対性

疑うことと信じることはシーソーのような関係だ。
あなたは何かを強く信じれば信じるほど、その逆の可能性に対しては自動的に疑いを持つことになる。
民主党を強く信じれば信じるほど、自民党に疑いを持つだろう。

「目玉焼きには絶対しょうゆだろ」と確信するほど、目玉焼きにソース派を否定するだろう。

ということは、「現実」や「記憶」、「つくられた私」に対して疑いを持ち始めるならば、
その逆の可能性を信じるだけの余地が生まれるということだ。

「現実」からリアリティを徐々に薄めていくならば、あなたが「非現実的だ」と
感じている事にリアリティを持たせていく事が出来るということだ。



⑤ 「叶えるためには駄目」の真意

「願望を叶えるためにやるなって?ふざけんな!!!!
 願望を叶えるためにここに来てんだよ。そんなの無理に決まってるだろうが!」

あなたがイラっときたのも無理はない。その言い分は確かにその通りだ。
願望を叶えるためにこの板に来て、何かを勧められて、願望を叶えるためにやらない人の方が
普通ではない。それはもはやスーパーサイヤジンレベルだ。

でも「願望を叶えるためにやらないで」の真意は違うところにある。

「願望を叶えるためにやらないで」の本当の意味は、
「願望が叶っていないという現実」にリアリティを持たせないで、という事だ。

例えば、あなたが「恋人が欲しい」とする。
その時あなたが「恋人を作るためにメソッドをする」という事は、
自ずと「恋人がいないあなた」を選ばされているという事だ。

108さんの表現で言うところの「恋人がいないあなた」という立ち位置をロックするという事だ。
それは「恋人がいないという現実」にリアリティを持たせるという事だ。

あなたはメソッドをするたびにちっとも効果を感じないどころかどんどん疲れてくるだろう。
そりゃそうだ。あなたはメソッドをするたびに「恋人がいない私」を選び続けているのだから。
「恋人がいない現実」にリアリティを持たせ続けているのだから。

こんな時、あなたにとってメソッドをすること自体が逆効果だ。
それはメソッドが悪いからではない。メソッド自体には何の問題もない。

問題なのはメソッドをするたびに「同じ場所に立ち位置をロック」していることの方だ。
だからあなたはループしていると感じる。ちっとも効果を感じない。依然として、
動かざる「現実」があなたの前に映し出され続ける。

だから、そんなことを忘れて別の事を考えている時の方が、まだ「恋人がいない現実」に
リアリティを持たせていないという点で、メソッドをしている時よりはるかに
「恋人がいる現実」に近いといってもいい。これが不足を見ないという事だ。

取り組むべき方向性は、そうではない。「恋人がいない現実」というものを疑う、という事だ。
「恋人がいない現実」からリアリティを取り除いていくという事だ。



⑥ 「責める」ことで強いられる選択

自分を責めるのも「○○丸々な私」を選ぶ事と同じことだ。あなたが自分を責める時、
「責められるべき○○丸々な私」を選んでいる。あなたは圧迫感を感じるだろう。

だからあなたはあなたを許すべきだ。たとえ記憶があなたの罪らしきものを
あなたの意識上に持ち込んだとしても、あなたは何一つ責められるべきではない。

あなたが何かを経験したのだとしても、それはあなたが「現実」と「記憶」に急き立てられて
本当は選びたくなかった「○○丸々な私」を単に選んでしまったというだけの事だ。
つまりあなたの責任ではない。そして今のあなたはその時のあなたとは別物だ。

逆にあなたがどんどんあなたを許すとき、それまで頑なに保持していた「○○丸々な私」から
ポジションを外そうとしているという事だ。手綱をゆるめようとしているという事だ。
あなたは少し開放感を感じるはずだ。それが自由になるという事だ。


⑦ 意図により、リアリティを移動させる

「意図する」という事もまた、ポジションから外れようとする事だ。

「どうすれば、お金が手に入るだろう」とぐるぐる考えている時、
あなたは依然として、「お金に困っている私」だ。

しかし、「よくわからんけど、とにかくお金を手に入れよう、稼ごう」
こうやって意図を働かせようとしている時、あなたは「お金のない私」というポジションから
脱出しようとしているという事だ。

「私は今、お金に困っている」ということからリアリティを取り除こうとしているという事だ。

ここで再び、疑うべき現実と記憶にリアリティを持たせて、「意図しても、ないものはないんだよなぁ」
となると、意図を取り下げた、という事になる。元のさやに納まるという事だ。

意図の仕方が重要なのではない、取り下げないことが重要なのだ。
元のポジションに戻らない事が重要なのだ。今の立ち位置から脱出しようともがく事が大事だ。
同じ事にリアリティを持たせるのではなく、そのリアリティを捨てようとする意思が大事なのだ。
たとえ、どんなにエゴ(=自我)が騒いだとしても。



⑧ オートマティック幸せへの道

とはいえ、個別の「○○丸々な現実」をいちいち見つめて一つずつリアリティを薄めていく
というのはめんどくさい(まぁやりたい人はやってもいいがオススメはしない)。
そこで別の領域の出番だ。

あなたは現実(記憶)というものに反応して、常に特定の「私」になっている。
そして無限の可能性の中から、「これが現実だ」としてリアリティを持たせている。

 (現実)←と→(それに対応した私)

しかしあなたは「○○丸々な私」をどれも選ばないという事が出来る。
どれも選ばないという事は逆に言えば、

「すべての私」であるという事だ。
「無限の私」であるという事だ。
記憶に縛られない無限の可能性を自分に許すという事だ。
それが別の領域に触れるという事だ。
それが108さんでいうところの「神と一致する」という事だ。
あるいは「十全である」という事だ。
「木彫りの人形として振る舞わない」という事だ。

そして「立ち位置のロックを解除する」という事だ。


⑨ 無意識の抵抗と「なにもしなくてもいい」

あなたは意識的にしろ、無意識にしろ、別の領域、あるいは神、そして幸せに抵抗を続けてきた。
それは不都合な「○○丸々な私」に「なり」続ける事によってだ。

あなたは、チケットの7章を適用して、私は「なにもしてませんよ」という。
確かに行動面ではなにもしていないのかもしれない。だが実際は、

「なにもしなければ、現実は変わるんでしょ?」

と、依然として同じ「○○丸々な私」を選び続けている。
依然として同じ「○○丸々な現実」にリアリティを持たせ続ける。
これでは「なにもしない」とは真逆の方向性だ。

「本当に」抵抗しないという事はどういうことか。

それは「○○丸々な私」を選ばないという事だ。
不都合な「○○丸々な現実」にリアリティを持たせないという事だ。

それが「神にお任せする」という事につながる。
別の領域に服従するという事だ。

別の領域あるいは神は、無限の可能性の中からあなたを幸せにする
「○○丸々な私」を選んでくれる。「○○丸々な現実」を経験させてくれる。

いくら別の領域があなたを助けたくとも、あなたが「○○丸々な私」を半ば強制的である
にしろ、選んでしまうならば、別の領域はあなたを助けられない。

例えば、あなた(感じる主体)がプレイステーション本体であるならば、先にあなた(エゴ・自我)が
ゲームソフトを入れてしまうと、もっと面白いソフトを別の領域が持っていたとしても
入れる事はできやしない。

たとえまやかしであろうと、あなたの選択を邪魔することは神にだってできない。

だから、神からあるいは別の領域からのプレゼントを受け取りたいならば、
何もソフトを差し込まない事だ。

これが「抵抗しない」という事だ。
これが「別の領域」に自分を明け渡すという事だ。
これが「神に従う」という事だ。
これが「○○丸々なあなた」として「なにもしない」という事だ。


⑩ 瞑想の意味

瞑想をするとは何か。
瞑想をするとは、「○○丸々な私」を選ぶのを一旦休業して、「何でもない私」になりますよ、という事だ。
つまりどんな「私」にもなりませんよ、という事だ。

だから、「私」が瞑想をする、というのは本来おかしい表現ではある。
もちろんスタート地点はそうなのだが、最終的にはただ「瞑想状態だ」ということだ。

瞑想をやって疲れる人というのは、この「私が瞑想をうまくしなくちゃ」という状態を維持して
意気込んでしまう人だ。いつまでも「瞑想をする」という動詞が残ってしまう。
しかし、別の領域、十全な本当の私にはDo動詞は不要だ。あるのはbe動詞のみ。
つまり状態だけだ。

瞑想というのはDo動詞からbe動詞への移り変わりでもある。
自己観察にしても同じことが言える。「自己観察をするぞ」と意気込み過ぎて疲れる人もいるだろう。
そうではなく、「自己観察状態」へと静かに移行するのだ。


⑪ 2方向からのアプローチ

さきほど⑥で書いたを図をもう一度表示する。
この図において、右側と左側は相互に影響し合っている。

(現実、記憶)←と→(それに対応した私)

この図の右側に対するアプローチが瞑想であり、自己観察だ。

つまり「○○丸々な私」を選ばないという事。
自我と距離を保つことで、特定の「○○丸々な私」と距離を置き、「全てである私」に還るという事。

では、左側に対するアプローチは?

そう、それが「現実を疑う」だ。
現実を疑うという事は、どういう事か。
それは、
「今、目に見えているものや記憶は、もしかしたら自分が思っているのとは全然違うのかも
しれないので、よくわかりません、何も確定していません。何が現実なのかわかりません」
という意思表示だ。デバッグでいうところの

・『見えているこれの正体は、実は無条件の愛なのかもという視点を持ってみる』
・『主よ、ここでの真理は何ですか』

という事だ。

つまり、この図における左側は、

  ↓
(????はてな)←と→(それに対応した私)

となる。

という事は、それにともなって右側も

           ↓
(????はてな)←と→(????はてなな私)
 
という事になるのである。
ゆえに、「???はてなな私」にはそれまでせき止められていた様々な可能性が入ってくるという事だ。
別の領域からの助けが入る余地が生まれてくるという事だ。

これが現実からリアリティを取り除いていく事の効果であり、
デバッグで語られている事の主要な論点の一つだ。



⑫ 「今」わたしにできること

瞑想や自己観察が得意だったりしっくりきてる人は、
そのまま右側へのアプローチを継続すればいいだろう。

一方で、そうでない人はまず先に左側へのアプローチをやった方がいいというのが俺の考えだ。
「現実」と「記憶」に対するリアリティを低下させた上で、右側に取り組むのもいい。
以前よりずっと現実に引っ張られなくなっているはずなので、右側への取り組みも
スムーズになっているはずだ。

あるいは、ほかのあらゆるメソッドもそうだ。
現実と記憶に対する「現実感」を減らせば減らすほど、どのメソッドにも簡単に取り組める。
たとえば「完璧だ」と認定する、「完璧」を採用する事に対してもはるかに抵抗感が減るだろう。

あなたは「今」という瞬間において立ち位置を選んでいる。
これを別の表現にすると、「今」という瞬間において何かに対して
「リアリティを与えたり、失わせたりしている」ともいえる。

これが「現実は内面の投影だ」という事だ。
あなたがリアリティを与えたことがあなたにとっての現実だ。
リアリティを与えるという事は、現実に対する自分の立ち位置を確定させるという事でもある。
立ち位置を確定させるので、それに伴った現象を経験するということだ。
例えそれが、不完全な知覚を通ったものだとしても。

それが108さんでいうところの「今という創造の最先端」にいるという事だ。


⑬ アラーム機能のおまけつき

あなたが、あなたにとって不都合なもの、幻想、「ない」にリアリティを
与えようとしている時はすぐにわかる。そう、ネガティブな感情によって。

つまりあなたは生まれつきアラーム機能を持っているという事だ。
なんという便利な設計。ただし、使い方を忘れさせられているというのが残念だがw

逆にポジティブな感情を感じる時、ワクワクする時、その時あなたは好都合な○○丸々、「ある」を
採用しようとしている(リアリティを与えようとしている)。

「それそれ、それだよ!それをユーのリアルにしちゃいなよ!(byジャニ」

とお墨付きをもらっているようなものだ。
だから、たとえあなたがチケットやデバッグを読み違えて勘違いして「叶うかも!」
とテンションをあげていたとしても、その時あなたが取ったポジショニング、「叶えられる私」
自体は、立ち位置として決して間違ってはいないのだ。

なので、ネガティブな感情が来たら、「今、自分が信じようとしているもの、
採用しようとしている観念、リアリティを与えようとしているものは何かな?」と気づく事。
そしたら、それを疑ってみることだ。

クレンジングが得意ならクレンジングをしてもよい。
クレンジングとは、あなたが今リアリティを与えている特定の定義
(例えば、「お金を稼ぐには辛い思いをしなければならない」など)
から、リアリティを取り除くという事だ。

あなたがたは捻くれものなのではない。
むしろ記憶と現実、自我に対してあまりにも「素直すぎる」のだ。
もっともっと疑ってみるべきだ。もっともっとツンデレになるべきだ。
「こんな映像みせても信じてやらないんだからねっっ!!」と。

たったそれだけで、人によってスピードは違うかもしれないが確実に人生が上向いていく。



⑭ スルーしないでね

以上が、現実のリアクションマシーン化対策だ。
ここまで読み進めてもらえばわかると思うが、これは何ら真新しい事は書いてない。
表現は多少違っているかもしれないが、これまで108さんをはじめとする多くのコテ諸氏らが
口を酸っぱくして言ってきた事だ。

チケットとデバッグに書いてあることだ。
にもかかわらず、積極的にスルーされがちな部分をもう一度提示したに過ぎない。
ループしてしまう、という人たちがどこに重点をおくべきかを強調して書いただけだ。

間違っても、「おかしい。現実を疑っているのに、現実が変わらないぞ。」
などと言わないようにw 「それが現実を疑ってないって事だっちゅ~の」とツッコミを
いれないといけなくなるw

それでは、健闘を祈る。



とまあ、慎重に書くとか言ってた割に結構インスピレーションのままに勢いで書いてしまったw
これで伝わらないなら、現時点における俺の表現力の限界だw

ちなみに、文章を書きあげてる途中で気づいたんだが、
「現実を疑う」というのは別スレでEtlb氏がもう提案してたね。

これが噂の「既にある」かw

う~ん。先越されちゃったんだぜww Etlb氏さすがだぜw

あと、これを読んで「わかったかも」という人は、去年の年末(?)ぐらいに
108さんが書き込んだ、「立ち位置」の話をもう一度読んでみよう。
今ならサクサクと入ってくるはずだ。



ちなみに昨日の番外編として、、、、

「誰にでも出来る!簡単、お手軽『認識変更』」

認識とは、あなたの観念(真実だと思っている事)を集めたものの事であり、別の表現で言えば、
あなたがリアリティを持たせて「常識として認めている」すべての事である。

これを比較的簡単に変えていく方法は、チケットやデバッグ、あるいは
ある程度信頼のおける引き寄せ本、上手くいってそうな人のレスなどを
「これが私の認識だ」「これは俺の書き込みだ」というような感じで読むことである。

しかし、当然読んでいく途中で、「んなわけねーよ」っていうような部分に突き当たるだろう。
実はそこが、認識を変えるチャンスなのだ。

もしかすると、そういう部分は積極的に無視している可能性もある。
だから、チケットなどをふともう一度読み直した時に、「あれ?こんなこと書いてたっけ?」
となる事がある。それは認識が近づいた証拠と言ってもいい。

あまりにも認識がかけ離れていると、無意識のうちに避けてしまう事があるのだ。

ここで、その「んなわけねーよ」に突き当たるという事はどういう事なのか。
それは、リアリティのバランスを変える瀬戸際にたっているという事であり、
今まですんなり信じてきた「当然」を疑うチャンスなのだ。

だからといって、すぐにはあなたはその「当然」の真逆を信じる事など出来ないだろう。

でも、「こんなの到底信じられないけど、もしかしたらそうなんだろうか?
そんなことありえるんだろうか?」と、その「当然」に対して少しだけニュートラルな
考えをしてみようかな、逆の可能性を少し考慮に入れてみようかな、と思う事があるかもしれない。
それが「疑う」という事だ。

そうする事であなたの認識が変わっていく。
それはごくわずかなリアリティの移動かもしれないが、
そうする事で少しずつ「当然」の位置が変わってくるのだ。

これを暇な時にでもやっていれば、そのうちあなたも108チルドレンになれるだろうw



それから、全く意味がわからん人へ

昨日は、引き寄せ的な知識というか技術的な事を書いたけれど、引き寄せなんか
まったく知らなくても人生上手くいってる人とそうでない人がいる。

その差は、才能でも努力でもない。
単に出来る限り「今」という瞬間を生きてきたかどうかというだけの事だ。
「過去と未来」を行ったり来たりせず、可能な限り今に意識を注いできたかどうか。
それだけである。

だから、たとえ何をいってるかわからなかったとしても天然で幸せになる事も出来る。
人によっては、必要なのは単にそれだけだったりするのだ。

だから、「これがわからない限り幸せにはなれない」と途方にくれる必要もない。

あともう一つ、口に黒酢とレモンとグレープフルーツを含んだぐらい酸っぱくして
言いたい事なのだが、

「意識的」に生きるという事だ。

つまり上手くいかない人は、大抵の場合「無意識」に生きているという事だ。
「無意識」に生きるという事はほとんど寝てるようなものだ。
「頭の中のおしゃべり」に流されて、夢を見ているようなものだ。
だから、大きく認識を変えた人たちは、「目覚めた人」と表現される事があるのだ。

実は>>296の質問を受けた時、少し面倒くさいと感じたのだがw(←おい)、今にして
みればナイスな質問を投げかけてくれた。

>「疑う」って現実を生きている身からすると「何か怪しい・違うかも」と感じるから
>すると思うんですが

この部分だ。
これが、今の自分のリアリティに素直に従うという事だ。
今自分が信じている事の反対の事を信じないという事。

「何か怪しい・違うかも」と感じるから疑うのは、その時あなたがリアリティを与えている事に
照らし合わせた結果、「真実ではなさそう」と判定を受けたので、それに従うという事だ。

これが無意識に生きるという事だ。
どれだけあなたが「自分で考えたんだよ」と主張したとしても、それは必ず方向づけられた思考だ。
無意識に生きる限り、あなたに自由意思などないのだ。

逆に言えば、意識的に生きるならば、あなたはあらゆる意味で自由だという事だ。

だから、「意識的に生きよう!」と決意するのもいい。そしてそれは「今」を生きる事でもある。
これなら、テクニックに縛られずに幸せになる事も十分可能だ。

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