☆どうしたらいいんだろう?と思うとき、あるいは、どうにかしなきゃ、とあなたが思うとき、あなたはそれを問題としてみていることになります。あなたは、なにかをしなきゃ、と思って生きています。
眠っているとき以外の、いつのときも、です。
というのも、あなたは、いつもなにかを考えているからです。
その根底にあるのが、いまのままではダメだ、という思い込みです。
あなたは、これではダメだ、とみなしているということです。
これではいけない、このままではいけない、と、いまある状況を否定しながら、遠いいつのときにか完全になろうとしているのです。
あなたにとっての完璧な状態は、遠い未来のいつか、なのです。それは、永遠にたどり着くことのない「未来のいつか」なのです。
つまり、なにかしなきゃと思うとき、あなたは、いまある状況を受け入れていない、ということです。
制限なき視点からみれば、いわゆる、真相からみれば、なにひとつ問題などないというのに、です。
なにかしなきゃ、とあなたが思うとき、それは、あなたのなかの「怖れ」から発動している、ということです。
怖れは、防御を生み、そして戦いを生みます。
そうやって、あなたは、他のだれかと、あなたの人生と、そしてあなた自身と戦ってきたのです。
もう、なにかしなきゃ、という思いを手放して、あなたの人生に屈してみてはいかがでしょう?
あなたは、なにもしない、ということをしたことがないかもしれません。
いくらゴロンゴロンして物理的にはなにもしていなくても、あなたの頭の中がいろんなことを考えていたなら、
あなたはやはり何かをしているのです。
それほど、なにもしない、という状態から、わたしたちは縁遠くなってしまっているといえます。
そう、わたしたちは、なにもしない、という神の状態を忘れてしまったのです。
ゆえに、ワタシは、なにもしない、ということをあなたの人生に取り入れることをおススメします。
それが、瞑想、というものです。
瞑想とは、なにもしない、ということをするものなのです。
それは、ただ在る、という神の状態でもあるからです。
神と生きる者、神秘家たちが瞑想をするのは、そういうことなのです。
マスターよ、怖れを手放し、神に屈するがいい。
なにもしない、に屈するがいい。
そのとき、あなたは、己の人生に調和という奇跡をみることになるであろう。
ということで、ワタシは、あなたがたに瞑想というものをおススメします。
「なにもしなくていいの?」
と、エゴが言います。
「なにもしないことをしてるんだ。」
とこれからは胸を張って答えます。
ありがとうございます。
*
☆これでいいのだ。幸せの秘訣はこれです。たえはシンプルです。真実とは、そーゆーもの。
これでいいのだ、と言い切ること。これでよかったのだ、と言い切ること。
たとえ、どんな状況にあろうとも、たとえ、どんなことが起きようとも、たとえ、どんなことが待ち受けようとも、これでいいのだ!と、言いきって生きるのです。
しかも、いま、です。いまこのときから、そー生きる。ただそれだけ。
いまこの瞬間を、これでいいのだ、と言い切っていきるのです。それが、しあわせの秘訣です。
あなたがそのシンプルさを生きはじめたとき、すでに、あなたは、「いま」を愛しはじめています。
あなたは調和とともにいきはじめています。「いま」とは、神のこと。調和、それは神のギフト。
これでいいのだ。そー言いきって、いまをいきるのです。たとえ、なにが起きようとも、です。
☆人生、どーであろーが、これでいいのだ、これでよかったのだ、ただそー思って、いきればいいのだ。
それがしあわせの秘訣だ。と、前回ワタシは語りました。
勘違いしないでいただきたいのは、それは、そー言い聞かせて、いきる、そー信じて、いきる、そー思い込んで、いきる、のとは全然ワケがちがうのだ、ということ。
それは、信じる、のではない。思い込む、のでもない。
それは、「考え」でも「メソッド」でもなく、それが、真理なのだということ。
真理とは、まことの真実。まことの理のこと。
だれがどー思おうが、あなたが信じよーが、信じまいが、そーなのだ、ということ。
ホントか?ウソか?試してみればいい。試してみれば、わかること。これでいいのだ!と、言いキル。
それ以外の考えはステル。
験せば、わかるんですから。あーやっぱりホントだ!ってなるにきまってる。
試さないとしても、いずれ、あなたはその真理がホントだとわかることになってる。
それが、いまなのか?いつかなのか?この世を去るときなのか?
は、ワタシの知ったことではない。
しかし、いま、それを試す価値はある。
これでいいのだ、ということを受け入れればいいんです。
「これでいい」とは、「これで完璧だった、そしてこれからも」ということ。
そのことをただ認めればいいのです。すべては完璧なんです。
すべては、必要なときに必要なタイミングで必要なことが起きているだけなんですから。
よーするに、起きることが起きているだけってこと。すべては、あなたのために、ということです。
完璧。それこそが、神の業。宇宙は完璧。あなたの人生も完璧です。
すべて完璧なことが起きている。すべては、あなたのために
いわゆる、すべては、あなたが「すべての完璧さ(パーフェクトさ)」に気づくためにあるのです。
もちろん、あなたも完璧です。だから、それでいいんです。
たとえ、これでいい、これでよかった、と思えなくとも、いいんです。
そのときこそ、これでいいのだ!と言いキルのです。
なんで?「これでいいのだ、これでよかった」なんて言えるの?
と、天に文句をぶつけてもいいのです。
これでいいのだ、これでよかった、と言いキリなさい。
そのとき、あなたは神とともにいることを、すべては完璧だった、ということを、あなたは深いところで理解することでしょう。ソレは、理屈を超えてやってくるのです。
あなたにわかるかたちで、あなたにわかるよーに、ソレはやってきます。
そして、あなたはこーことばにするでしょう。これでいいのだ、と。いずれわかることになっている。
なぜなら、それが「真理」というものですから。
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あなたにはもっとスバラシイ究極のものを望むことができますよ!
ってこと。
もし、あなたが、人生がうまくいくこと、世間的に成功すること、お金持ちになること、など、あなたの願望を実現させることに、そこに焦点をあてているのなら、あなたはあなた自身を見くびっていることになります。
なおさら、もし、そーだとするなら、あなたは「“神の子”であるあなた」を否認しているとゆーことになるです。
神は無限です。神に制限などないのです。神は、あなたの最高を望んでおられます。
ゆえに、あなたも、あなたの最高の究極を望んでください。
神を見くびらないでください。神の祝福を見くびらないでください。
あなたはもっとスバラシイ究極のものを神に望むことができるのです。
マスター(ご主人さま)よ、あなたの最高の望みを叶えてしんぜよう。
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☆ワタシが、「すべては完璧」というとき、それは、すべてはひとつ、すべては神、すべては愛、そのどれも同じ意で言っています。
すべて、かーんぺきです。
あなたのこれまでの人生で起こってきた出来事(事象)も、そして、これからあなたに起きる出来事も、です。
たとえ、あなたからみて、どんなにヒドイことのようにみえようが、どんなに理不尽なことのようにみえようが、
どんなに悲惨に、悲劇にみえようが、すべて完璧なのです。完璧なことが起きているのです。
それは必然で起きている、と言っても過言ではありません。
ただ、あなたは神(の視点)から分離した視点からみているがゆえに、そーはみえていないのです。
というのも、あなたは、自分にとって都合のいいよーに、自分の世界観で、この世界をみているからなのです。
あなたは自分のみたい世界をみているただそれだけなのです。
あなたのみている世界、あなたの生きている人生とは、あなたがみたいと願った世界が、あなたが経験したいと願った人生が、いまあなたに展開されているだけなのです。
真理というものを悟れば、それが一瞬でわかります。
そもそも「悟れば、、、」という言い方も変な話です。
なぜなら、あなたはすでにその真理を知っているのです。
あなたは、その真理を受け入れるだけでいいのです。
いずれ、あなたはその真理に気づくのですから。
あぁー、なぁーんだ、そーっだった、と。
よーするに、ワタシが「すべては完璧」というとき、それは、言い換えれば、すべては神の計らいのなかでシナリオどーりに起きている、というふうに言うことができます。
神のシナリオどーりに、起きることが起きている、すでに決まっていることが起きている、と。
とゆーことは、あなたが真理に目覚めるタイミングも決まってる、ということになりませんか?
じつは、そーなんです。
これを読んでいるあなたは、もうすでにか、もーすぐか、目覚めるということです。
そーなるに決まっているんです。それははじめから決まってるんです。
なぜなら、かくいうワタシこそ、そのためにここにいるのですから。
ワタシはそのためにこの世にいきているのです。
それが、ワタシのこの人生での役割(使命)だから。
ワタシはそのことがわかっているのです。
さて、だとしたら、このワタシに自由はあるのでしょうか?
いいえ、かくいうワタシもすでに決められているのです、とも言えますし、神としての自由な創造の一端を担っています、とも言えます。
あーともいえるし、こーともいえる。そんなこたぁどーだっていい。
神の完璧さのなかでいきることこそが、いきる歓びってもんですよ。
なにしたって、どーしたって、あなたは神に守られているのです。
神のマインド(心)のなかでただ起きているだけ。
『西遊記』のなかで、孫悟空が世界の果てまで行ったぞー!ってはしゃいだところで、なんてこたぁない、
その果ての果てのそこすらも、お釈迦様の手のひらの上だった、と。
つまりは、そーゆーことです。
なにがいいたいのかというと、あなたはすでに守られている、ということです。
あなたがその真理を受け入れて生きはじめるとき、あなたは、すべての完璧さのなかであなたの人生が運ばれていた、ということにいつか気づくことでしょう。
それでいいのです。
できることなら、この、いま、から、どうぞあなたの人生を神にゆだねてみてください。
それがいまのワタシが伝えたいこと。
それがワタシの役割。
神の思召すまま、なるがままに、ただ、いきる。
ワタシもコレをいきているのです。
あなたが神にゆだねていきるとき,、あなたはあなた自身を、そしてあなたの人生を信頼しているということです。
☆想いが現実を創る。すでにスピリチュアルなことを学んできたあなたがたは、この真理を知っているはずです。
言うまでもなく、内側のこころが外側の世界を創る、という意。
わかりきったことかもしれませんが、いわゆる、内側のこころの方が優先されるべきで、大事、だということ。
だというのに、その真理を知っていながら、あなたがたは、なぜ、外の世界で問題を解決しようとするのでしょう?
なぜ、外の世界に問題をフォーカスするのでしょう?
それは、たんに頭で知識として知っているだけであり、わかっているとはいえません。
そーなのです。それを知っていながら、なかなか(実践)できないのがわたしたちです。
その状態のことを、仏教では、無明(むみょう)と呼んでいるのです。
なにがいいたいのかと申しますと、すべては己(内側)のこころ、だということ。
こころが愛と安らぎの調和に満たされているならば、外の世界は調和へと変容していく、のです。
ゆえに、いまこの瞬間、安らぎの状態でいることを優先すべきなのです。
秘訣は、リラックス。
あなたは本当にそのことをわかっているでしょうか?
それは、とてもシンプルでありながら、実際のところ、なかなか慣れていないのが現状でしょう。
なぜなら、外の世界でどーだこーだ(行動)しないと、外の世界(現状)は変わらない、と、わたしたちはこれまでそー思い込んで生きてきたからです。
状況が問題であればあるほど、わたしたちはどーにかしようとジタバタ、あくせくしてしまうのです。
それこそ、無明の状態であり、神を、己を、己の人生を信頼していない状態なのです。
もし、あなたがいまあるすべての問題を手放して、いまこの瞬間にくつろぐ、ことを選択するならば、
あなたは己の真のパワー(神秘力/神)を信頼したということです。
そのとき、あなたは、奇跡が起きることを、ゆるした、ということになるのです。
こころの調和こそが、現実を調和へと運んで行くのです。
それを実践してみたならば、あなたは体験でその真理を垣間見ることでしょう。
他のなによりも大事なこと。それは、いまここにくつろぐこと。
その一番の実践方法が、瞑想です。
外の世界を離れ、すべてを手放して、ゆだねる、いまここにくつろぐ。
それが、瞑想です。
あなたにとって、困難な状況にあればあるほど、外の世界を手放していまここにくつろぐことを選択するには、
とても勇気がいることでしょう。とても怖いことかもしれません。
でも、どうぞ怖れないで、あなたの内側へと向かっていってください。
あなたのこころが変わる(シフトする)なら、外の世界は、完璧にみえるのです。
なんら、問題などナイ、はじめから、問題などなかった、と。
真のゆるし、とは、そーゆーものであり、それこそが、真の解決であり、真の救い、とゆーものです。
*
☆わたしたちは、ものごとがうまくいかなかったりしたとき、なにか間違っていたのだろうか?
なにがいけなかったのだろうか?あーすればよかったかな?あーしとけばうまくいったかも?
と、考えてしまいます。
ふだん日常生活をしているワタシも、ついその思考にとらわれたりします。
でも、ワタシの深いところの部分では、すべては必要なことが起きている、ということがわかっているワタシがいます。
その「わかっているワタシ」を取り戻したときに、だいじょうぶ、という安堵感と信頼感も思い出すのです。
すべては必要なことが起きているだけ。
それは、ワタシ自身にとっても必要なことが起きているし、ワタシと関わるひとたちにとっても必要でそれが起きている、という意です。どんなことであろうと、です。
ワタシは、それを「完璧」と呼んだりします。
それを、神の計らい、と言い換えても同じことです。
一度でも、その視点をかいまみたならば、もうその真実を否定することはできないのです。
起きた出来事をただ受け入れていくほかないのです。
ワタシの人生のなかでも、なぜ、あんなことが起きたのだろう?
ということは、いまだにたくさんあります。
ただ、はっきり言えるのは、それらはすべて必然だったということです。
しかも、その必然はこの、いま、も起きているということです。
そして、これからも、ということです。
そこにはうまくいった、うまくいかなかった、はもうありません。
個のワタシが勝手に解釈していただけにすぎないということに気づくのです。
もうなにもわからない。それでいいと思います。それは、神のみぞ知ること。
神にお任せして、神を信頼して、神にゆだねていきるとき、そこには平安がありますから。
もう、それでいい、それだけでいい、と。
というのも、その「神」とは、ワタシのことであり、あなたのことなのです。
*
ゆえに、ワタシは伝えたいのです。
すべては愛でしかありません。
すべてはすでに完璧だった。
それは、ワタシのなかで一瞬のうちに理解されたのです。
すべてはすでに完璧。
すべてのひと、もの、こと、それらは神でしかなかった。
だれ一人、なにひとつ、すべてはワタシにとって欠くことはできない存在だった。
だれ一人、罪人なんていないし、そもそも罪などはじめからなかった。
エゴ(自我)なんてものは、そもそもだれのなかにもなかった。
ゆるすことも必要なく、そもそもはじめからゆるされていた。
救われる必要もなく、そもそもはじめから救われていた。
それは、ワタシの内側で起きたのです。
ワタシの目に映るひと、もの、こと、そのすべてが完璧な神の計らいのなかで仕組まれていた。
すべてはそのことに気づくためのものだった。すべてはそのためにある、と。
ワタシは、それまでの己の無知さと愚かさに気づかされるとともに、遥か遠く2000年前に生きたイエスと、
そして、そのイエスが愛した父を、神をワタシはそのときはっきりと理解したのです。
すべては神の愛でしかなかった。すべては愛でしかなかった。
それは、ワタシのなかで一瞬に理解されたのです。
愛は、けっして学ぶことはできません。
なぜなら、愛は、すでにある、それそのもの、だからです。
ただ、それをいきるだけでいい。
ただそれをいきることしかできない。