「無い」感覚をキャンセルできたら、それは叶った状態だ
最近、現実がぼんやりと幻のように感じ、その透けて見える向こうからただただ愛だけを感じる。
現実ももちろん変化したけれど、ここの居心地の良さがわかってよかった。
よしおさんじゃないけど、本当に何にも関係なく、ただ在るだけなんだな。
むしろこれをロジックで関連付けしようとした瞬間に違うものになる。
頭で考えるのはある段階まででいい。なんとかエゴが理論で納得したがったが、
七章は理論での理解は無理だった。思考と理論を放棄した先にある。
ただ、だから思考を放棄しよう、理論を放棄しよう!だとまたこれは思考と理論の復活になる。
それに、何を考えていようが、放棄を適用できなかろうがエゴ塗れの思考だろうが関係ない。
関係ないと思い込もうとしなくていい。本当に関係ない。
ただ在ると感じたら思考をプツンと切る位でちょうどいい。
現実、願望とのにらめっこがやめられない人は、意識的に願望を描いてしまったら
エゴが追ってくる前にプツンと思考を切る、今メソッドでの思考停止を習慣にするのがいいかも。
*
ああ、もう、世界はただ自分だったんだなって実感したら、願望とかどーでもよくなっちゃった。。
今グチャグチャ考えてる願望の対象、手元にないと感じているソレ。
なぜ手元にないのに、目の前に見られないのに意識できる???
それが存在はするということを理解出来る??
飛んだ例えになるけど、自分、サハラ砂漠行った事ないんだ。
でも、知識から、たくさん砂があって、空が綺麗で、砂漠のバラとかあったりして…。
って意識を飛ばせる。
その空想上のサハラ砂漠は現実と違うかもしれない。
だけど、今その砂漠を認識している自分はなんだ。
その認識している自分の感じる、この砂漠に対するリアリティはなんだ。
その認識していることに気づいている"自分"て、なんだ…。
サハラじゃなくても、特定の描いた何か。例え地球の裏側だろうが、
過去の生まれる前のものだろうが、空想上の生物だろーが、それを認識できてる意識ってなんなんだ。
自分の生きる世界すべてが、まずこの認識している意識ありきで作り出されていたんじゃないか
って感じたら、今までバタバタしてたのが嘘みたいにすべてがつながった。
ぜんぶ、自分の認識ありきで世界はできていたと言うこと。
世界と自分の境界線なんてなくて、ただ自分がつくりだしていただけだと言うこと。
すべては調和していたこと。
自分はこの世界にとって一つの現象だったということ。
一つの現象だけれども、世界のすべてが詰まっていること。
到底ばからしい結論だけど、すべてかなっていたこと。
ちょっと、願う事ができなくなって、正直さみしいのと、途方にくれてる感じがある。
どーしていいかわかんないけど、しばらくはこの世界との一体感でも感じてみようと思います。
*
なんでそんなふうにぶっ飛べるんですか?
羨ましくてたまらない
まずあなたに一つ。
さっきのレス読んだ時に強烈な分離を感じたから、なぜ??とか羨ましいが出るんだよね。
まだ納得できなくても、その分離感はエゴから出たもので、本質では幻です。
切り離して離れたところから見ようと思えば見る事ができると思う。
思考や渇望自体はエゴというものから自動で起きる現象で、自分の本質の意識とは関係ないものです。
どんなにリアリティがあって苦しくても、却下してください。
あなたの本当の意識は、エゴからの思考を客観的に眺められるものだし、何からも分離していません。
私のさっきのレスも、あなたの世界のもので、あなたのものです。
私もほんとつい最近まで、ねぇよ!なんでこんなにがんばってるのに叶わないんだ!!
わかったと思ってもまた無い感覚に戻る。。私がなんか悪いことしたか!?このままなんて嫌だ!!!
って、しにそうな感じだった。
で、わかった!世界は愛やったんやーとかまとめブログ貪るうちに頭で理解できたし、
体感もすごいの何回もきたけど、なんかの拍子に戻って死にたくなってた。
で、なぜ戻るかって、まぁわかった後からの後付だけど、
体感しても、その意識、別の領域を信頼しきれてなかったから、怖くて戻ってたんだよね。
で、この意識を信頼した流れとしては、桑田さんブログとか自己観察さんとか、
とにかく自分にとって心地いい文章をとにかく読んで、読みながら実践、体感していくことを繰り返した。
特にエゴがまだ強かった頃は、自己観察さんのブログずっと読んで、エゴからの声から遠くに身を置き、
その状態の時に感じる静けさを時間をとって意識的に感じようとしてた。
そのうちそこで感じるものが心地よくなってきて、大きくなってきて、自分を取り巻く世界に溢れ出てきて、
それを世界すべてに向けたら、世界は自分だったって実感した。
最初は意識的に、苦痛が伴ってもエゴからの声から引いた場所にいるようにするほうがいいと思う。
それが蓋になって苦しいようなら、ひたすら自愛かな。
エゴからの声は無視すると苦しいかもだけど、
リアリティを与えているのはあくまで自分で、リアリティを取り下げることが出来るのも自分です。
その事に気づいて、乗っ取られないでいてください。
そうすると、自分がエゴの立場でも、それを見る大きな意識でも、どちらでも選ぶ事が出来るから。
苦しい時は有限です。そこにリアリティを与えないでください。
…なんか書いてるとやっぱりどっかで聞いたような内容になっちゃった
*
>どんなにリアリティがあって苦しくても、却下してください。
エゴのリアリティが強くて自己観察、自愛、瞑想等色々やっても
距離を取るのが難しい場合はどうすればいいのでしょうか?
距離をとることが難しいことに気づいているじゃないw
気づいている場所はエゴとは違う場所だよ。そこにいる感覚を大事にしたら??
エゴのリアリティが幻をまだ採用できなくても、どうやら幻らしい、ととりあえず思っていればいいよ。
あたしは意識して気づいている自分の方が本物だと信じ続けた。
最初は苦痛でも、続けていれば意味がわかるし、幻だったとすんなり理解できるよ。
そこはみんな通る道だよ。必ず先がある。
あなたが叶っていない、苦しい、とリアリティを与えている根拠ってなに??
その根拠がニセモノなんだよ。
でも、実際に~~なことが目の前で起きて、この事実は覆らないんです!!!って思うかもだけど、
あなたの立ち位置が、まず叶っていない、苦しい。
だったら、そう見えるための根拠が自動的に生産されていく。
でもね、自動的に生産される、ということは、後付けされたものだということで、
どんなに記憶と辻褄があっていても、ニセモノだから。
ニセモノだなんて信じられなくても、今までの常識として、真実は時と場合、
そして受けて次第でどのようにも受け取れるって知ってるよね。
その常識を、あなたが握っている根拠に向けて欲しい。
断言するよ。それは「ニセモノ」だと。
*
>気づいている場所はエゴとは違う場所だよ。そこにいる感覚を大事にしたら??
この感覚というか気付いている自分というのがよくわからないのです。
自己観察もここで躓いた。エゴに気付いている時点でいつもとは違う立ち居地にいるのは
なんとなく理解しているのですが。
その感覚というか存在が掴みづらい。まあ感覚的ナ事なので仕方ないのでしょうが。
>あなたが叶っていない、苦しい、とリアリティを与えている根拠ってなに??
やっぱり五感ですかね。それとメンタル持ちなのでエゴの囁きが強くて。
まず一つ目について。
でも、気づいている時、違う立ち位置の時、確かにエゴは遠くなったでしょ??
遠くなったってことがまずすごいことなんだってもっとちゃんと信頼したらいい。
だって、エゴはあなたじゃなかったんだよ??あんなにひどい渇望感、リアリティを伴ったものでも。
自己観察する時は、エゴと決別できてる自分が信頼できれば出来るほど、その場所への信頼が強まるよ。
あと、観察してるとき、後付けしてない??
うわぁ、こんなん大きすぎて、強すぎて無理やぁ、とてもじゃないけど冷静に自己観察できんわ。。って。
これも後付け。気づいたらこのさらに外に出て。気づいたら出れるよ。
二つ目。
五感だったとしても、例えば欲しいものが人だった場合、そばにいない時だってあるでしょ。
モノだって、いつも欠かさず持ち運ぶ??持ち運んでたとしても常に触ってる??
例えばポケットにいれて忘れてる時だってあるでしょ。
手元にないからって、それとリアリティは結び付けなくてもいいんだよ。
その、ああ、ないんだな。って感覚も、無いの立ち位置から産まれた後付けだよ。
それを認めたら、無いはキャンセルできる。
無い感覚をキャンセルできたら、それは叶った状態だ。
ただ、その感覚は、やった!叶った!!ヒャッホーーイ!じゃないかもしれない。
ああ、元からあったのね、とか、今までだってそこいたじゃん。って、こう書いたら
そっけなく感じるかもだけど、ヒリつくような不足をスパイスにした高揚感でなく、
穏やかさそのものかもしれない。
でも、それは不足と表裏一体のものではない、ほんとの充足への扉だよ。
この穏やかさを感じられたら、しっかり浸って欲しい。
そのうち辛いのって全部夢みたいなものだったなぁって目が覚めるよ。
あと、あなたの書き込みは、やってみた。うまくいかない!どうして?で無意識に止まってる。
どうして?からはどうして?が生まれるよ。その立ち位置だから。
キツかったらごめんね。
そんなこと言ったって!!って悲しい気持ちになるかもしれないけど、
あなたにとって大事なことな気がしたから書くよ。
わからない。も後付けだから、キャンセルしてほしい。必ずわかるから。
そして蛇足だけど、このキャンセルするってみんな 普段無意識にやってることでもあると思う。