「俺は悟った!」と思うから「いや、悟ってねーよ」という現象を味わうことになるんです。
私が「悟ったかどうかはよく分からない」「興味がない」
というのは、そういう意味もあります。
> ここで思考を変えないと、俺は結局ずっとこのままだ!うおおおお!負けないぜエゴ!
エゴと闘おうとしないでください。
そんなことをしても、まず勝ち目はありません。
なぜならそれ自体が、エゴの活動を刺激して活発にしてしまうものだからです。
> ここから抜け出すにはどうしたらいいでしょうか?
エゴを放っておく。どうこうしようとか思わない。
一方で、別の領域、本当の現実に興味を持ち続けてください。
別の領域から充足が流れ込んできたら、シッカリと受け容れてください。
それに対してエゴによって新たな意義を与えようとしたり、
「これはエゴに対抗する材料だ」などとは考えず、
実際にあるべき本当の経験なのだという観点でもって、キチンと認識してください。
で、その視点を変えないこと。それだけで充分です。
*
“もう一番になりなさい、なってる事を認めなさい”的な命令アファをしました。
> 一気にスッキリしたいものです。
「あ~、スッキリした!!」先にこう言ってしまいます。
思いっきり大げさに、感情を込めて。
*
「今をみる」「認識を変更する」と意図してから何でかわからないけど本当に上手くいっちゃってます。
大胆に自分に許可したり、執着しないように
「結果はダメでもいいじゃん」を心の中で繰り返したりしています。
結果、本当にダメになります。
この時私の中では「やっぱりな、またか」という思いが少なからず巡ります。
いつもいいとこまで行くのに結果が出せない。悔しいです。
> 私のなかにある観念と、その観念を手放す方法を教えて下さい。
「そんな観念はない」そう断定してください。
別の方向からも書いておきます。
確かにあなたは深いところで願望の実現に抵抗してしまっています。つまり、
「私にはそれを受ける権利がない」という深い思い込みによってです。
あなたにとって予想外に物事が順調に進んでしまうため、「これはヤバイ」と
防御反応が働いています。本当はそんなもの働かせる必要はないのですが、
長い間に培ったあなた自身に対する認定のせいで、勝手にその防御反応が働いてしまいます。
実現に対する恐怖心・抵抗に対して問いかけていくと、
その恐怖や抵抗には何ら根拠がないということが明らかになります。
それをやっても良いのですが、ちょっとショートカットしましょう。
先に「それはヤバくない」と認定を変えておくのです。
それが普通だと思ってください。
私はなんの条件もなく、それを手にして当然なのだと。
そのあなたになってください。そのあなたであってください。
それを許可できるのはあなたしかいません。
だから、これまでに培ったあなたの信念がどう言おうが、
断固として許可して、それを当たり前のこととしてください。
*
座れる時は
「今日はきっとうまくいく。座れる」と全てをお任せにしていました。
逆に、座れない時はどこかイライラしていたり、思考で何とかしようとしていました。
今は何でこんな簡単なことに気づかなかったんだろうという気分です。
素晴らしい!
あなたの書き込みには引き寄せの真髄が極めて端的に述べられています。
*
チケットでも「宇宙に注文する」という表現は使っていないと思います。
たとえば、自分の胸の中に「万能の実現機関」があると考える。
そこは森羅万象と繋がって働きかけることが出来る、誰にでも備わっている実現システムです。
もちろんあなたにもあります。
ただ、あまり使用していないので慣らし運転が必要です。
まずはちょっとした小さいことから初めて、慣らしていきましょう。
…こんな風に、あなたにとって納得いくイメージで置き換えてみてください。
シックリ来るものなら何でも構いません。
*
前回の108さんライブの際、何度も仰っていた「神様にお願い」に関してです。
108さんは、願望の実現に抵抗観念を持っている相談者に対して、
「神様が”こいつはまだ抵抗する観念を持っているから、だめだ”なんて言うと思いますか?」
と仰ってました。
そこで思ったんですが、実現に関しては抵抗していようと何だろうと神様は叶えてくれる。
(だって神様は万能、どんな願望も裁かないから)
でも、自分に抵抗観念があったら実現を受け取れるんでしょうか?
何度も「願望が実現しないのは、自分が受け取ることに抵抗しているから」
と仰っていたような気がしたので、疑問に思いました。
よろしかったら教えてください~。
>>83
あなたの質問は核心を突いています。
実際に神は何ら制限することなく、どんな願いでも叶えてくれます。
ところが受け取る方が「それに値しない」と受け取ることを拒否すると、
神はそれをゴリ押ししてまで強引に押しつけようとはしません。
なぜなら「私は受け取るに値しない」というのが、その時のあなたの願いだからです。
受け取れないのは神の方にではなく、拒否している注文者の方に原因がある。
※これはあくまでメカニズムの話です。
ところが、ここで
「…ということは、抵抗観念を保持している私は受け取る資格がない」
としてしまうと、その認定こそが「受け取り拒否」の姿勢になってしまう。
だから、
「私は抵抗観念を保持しているけれど、それと関係なく受け取って良い」
こう認定すると、これこそが「実現を許可している状態」になります。
問題は、
「メカニズムがこれこれであるから、私はそこから考えてどの地点にいるか」
という思考による態度保留ではなく(これを始めると堂々巡りです)、
「自分をメカニズムに当てはめて考えることではなく、単なる姿勢の問題だ」
という気付きからの、断固たる許可の姿勢なのです。
*
叶うまでの時間が待てません。
待てないのでいろいろな方法論に気持ちが行ってしまったり、ガッカリしたり。
自分はお金に対する不足感があり、気持ちに余裕がありません。
何か行動しないといけないのかとあせってしまったり。
> 受け取ることへの抵抗ってなんなんでしょう?
上でも書きましたが、「自分はそれを受け取るに値しない」
という思い込み、信念です。
それで、その信念を「現象化に依存させる」ことによって益々強固に補強している。
目的が現象化であるとしても、そこに固執する限りその信念を手放すことは難しい。
では、一体どうすればいいのでしょうか?
あなたは自分がそれを受け取るに値しないと信じ込んでいる。
この信念は変更することが難しい。
ならば、その「あなた」という主体を、受け取るに値するものに変更してやればよい。
何が良いでしょう?あなたにとってシックリと来るものとは?
例えば「神」なんてどうでしょう?
あなたが神の表現であることは疑いようのない事実です。
それならその「神」自身が、あらゆる充足を豊富に受け取るに値しないわけがない。
そこに「ちっぽけな自分」という設定をわざわざ加えることによって、
無意味な障壁をこしらえて、敢えて受け取れないように画策する必要はない。
ここには大胆さが必要。
あなたが存在しているのなら、それはあなたが神であることの証明。
他の理由は何も必要でない。
「この私が受け取れないことなどあり得ない」
「大それたことだ!」などと思わずに、それを力強く断定することです。
常に大胆であってください。受け取ることに臆病にならないで。
それはあなたの正当な権利なのだから、そんな遠慮は無意味だし不必要です。