メソッド11
◆完璧だ
◦適応状況
全て
あなたが現状にどのような判定をしているかにかかわらず、こう断定してください。
「完璧だ」
この短いセンテンスは、あなたの現実に極めて強力に作用します。
「なにが完璧かよ。悲惨な状況じゃねぇか」
内面からこんな反応が返ってくるかもしれません。
その反応は、それはそれで置いておいてください。
大切なのは、ネガティブな反応があったとしても、それとは戦わず、頑としてこの短い断定を採用し続けることです。
「完璧だ」
この言葉は短い断定ですが、そこには素晴らしい希望と、それが見事に展開されるプロセスとが凝縮されています。
実際にも、状況は「完璧」なのです。
あなたが、たとえ今どのような印象で状況を認識しているかに関わらずです。
あなたは断定することで、単に別の領域における真実を認定しているだけです。
しかし、この単純な認定には、極めて重大な意味があります。
認めることで、それは現れてくるのです。
なぜなら、それは別の領域における真実だからです。
あなたがそれを認識できていないとしても、そうなのです。
そうやってあなたが別の領域から採用した認定は、現状にあろうがなかろうが、現れてくるしかないからです。
どう感じていようが、認めてしまえばいいのです。
そうすれば、それは自ずと現れ、展開していくようになります。
嬉しいとき、成功したときも言ってみてください。
それは単なる現象への事実認定にとどまりません。
別の領域が作用してることへの強力な承認となるのです。
その力はますます強力に作用することになります。
いつでも唱えてみてください。
「完璧だ」と。
☆ここがポイント
・状況判断に認定を依存させない
・断固として認定する
メソッド16
◆この状況は、私にとって素晴らしい!
◦適応状況
・危機的状況にあるとき・絶体絶命の時・幸せを感じているとき・満足しているとき
このメソッドは、どんな場合にでも使えます。
危機的状況で打開策がまるで見つからないようなとき、特に効力を発揮します。
あなたの今置かれている状況がどんなものであれ、それと全く関係なく、
「この状況は、私にとって素晴らしい!」
と断定してください。
理性的状況判断とは、まるであべこべかもしれません。
でも、それでよいのです。
ただ、断固として断定してください。
「この状況の、どこが一体素晴らしいのだろう?」
などと考えないでください。
素晴らしい点を、敢えて探さないようにしてください。
しなければいけないことはただひとつ、断固として断定することだけです。
今の状況を全面的に受け入れてください。
そして、それについての属性を、あなたの自由意志で今決定し直してください。
現在の状況に不安を感じる度、これを繰り返してください。
声に出してみても構いません。
力強く、 「この状況は、私にとって素晴らしい!」
断定してみてください。
これを続けていると、そのうち
「常識的な状況判断など、まるで関係なかったのだ」
ということが起きてくると思います。
本当に「この状況は、私にとって素晴らしい!」と感じる状況が現れてくるのです。
これもエゴが認識している現状と、別の領域における観測結果とのギャップを利用したメソッドです。
本来ならエゴの状況判断を採用するところを、別の領域の判断とすり替えてやるのです。
あなたがなぜそのような状況判断を採用したのか、エゴには理解不能です。
エゴに理解不能だということは、つまり別の領域における真実の観測結果…エゴは、実はこの時点で、このことに気づいています。
「俺には関知し得ない領域の、本当の観測結果を採用しやがった。お手上げだ」
こんな風に思っています。
別の領域からの観測結果を、積極的に採用してください。
それが習慣づけば、現状と思えるものがどんなものであろうと、あなたはそれに左右されなくなります。
自分の思うように現実を操れるようになるでしょう。
まずは、この馬鹿馬鹿しいような観測を習慣づけてみてください。
☆ここがポイント
・現状と感じるものはまやかしである・別の領域からの観測結果を、積極的に採用しよう
メソッド19
◆エゴを超越する
これはメソッドというよりは、ふだんからの態度・心の持ち方です。
我々はいつもエゴが自分自身だと感じているので、別の領域とつながることは、なにか特別なことだと思ってしまいます。
ここをひっくり返してください。
実際にはエゴというのはごく一部で、別の領域を含めた自分自身は、もっと巨大な存在です。
中略
エゴがこの図の中の黒点だとすれば、実際のあなたはどれくらいの大きさになるのでしょうか?
とても図では表現しきれません。あなたという存在は全宇宙に匹敵するくらいの大きさです。
逆に言うと、エゴはそれほど矮小なものなのです。
我々は通常、この極めて小さい、自分の中のごくごく一部を、あたかも全体であるかのように超絶の倍率で拡大して認識しています。
それが、我々がふだん持っている自分への認識です。
だから、常にこの視点を保つようにしてください。
時々、この矮小なミクロの一点に焦点が合ってしまうでしょう。
それはそれで構いません。
しかし、本当の自分は限りなく、果てしなく巨大なのだという認識を持ち続けてください。
エゴとして反応することは仕方ありません。それは避けられません。
それも制限するのではなく、許してあげてください。
その上で、そのように反応しているのは、実際には自分の限られたごく一部分なのだ、という認識を持ち続けてください。
エゴが反応するたび、そういう視点を思い出して、それを保持してください。
いずれ、本当の自分としての「正常な反応」が、当たり前になっていきます。
そうなると、もうエゴの呪縛からは解き放たれています。
あなたはより巨大で強大なアイデンティティを獲得したことになります。
全てが適切に処理されていきます。
幸せな感覚を持ち続けることは、より容易になります。
そして、幸せな現実を創造することも、簡単なことになっているはずです。
見て、感じている部分だけに自分を制限しないでください。
自分をより大きな視点で捉え直すことが出来ると、他人や周りの現実も、同様に大きな視点で捉えられるようになっていくはずです。
エゴの視点による歪められた認識が、どんどん矯正されていきます。
そうなると、悲観することなど何もない、という事実がより鮮明になっていきます。
安心してください。
それが実際のところなのですから。
*
「罪悪感という観念による自動判定システム」を、どのように変更していけばいいのでしょうか。
ふだんは認識できないこれらの観念と向き合い、ひとつひとつ無効化していってください…とは、私は言いません。
なぜなら、それには大変な労力が必要とされるからです。
もちろん、その方法にも一定の効果はあるでしょう。そこに取り組んだ方が手っ取り早い、と考えるのでしたらそうしても構いません。
でも、思い出してください。
「何かをしなければ、それを得ることは出来ない」
という考え方は、完全にエゴの発想です。
ということは、それは効果をもたらしたり、もたらさなかったりするということです。
要するに、らちがあきません。
この大原則を、常に思い出してください。
従来の条件付けを、無意識的に持ち出さないようにしてください。
むしろ意識的に、それらの条件付けをきっぱりとはねつける心的態度を持ち続けてください。
あなたは何も変更する必要はありません。
それは現在不具合を起こしている、あなたの内部の観念システムに関しても同様です。
思い出してください。
あなたは既に願望を実現しているし、成功しているのです。
何かをしたあとで、ようやくそれを得ることが出来るような性質のものではないのです。
あなたに必要なのは、それを受け入れることだけです。
あなたの内部に巣くう観念がどう言おうが、それを自分に許さなくてはいけません。
あなたの感情・行動・思考・観念と、あなたの幸せとを完全に切り離してください。
あなたは「なんらかの条件をクリアしたら幸せになれる」というわけではないのです。
そんな取り組みは、あなたをヘトヘトになるまでくたびれさせるだけです。
その取り組み自体が、あなたに幸せを感じさせることを延期させている行為に他ならないのです。
だから、その発想を今すぐ中止してください。「幸せを得るためにする必要があると思うこと」を一切手放すことです。
それらは既に全てある。それを直ちに認め始めることです。
敢えて遠回りをする必要はありません。
メソッド20
◆関連づけの放棄
何かをすることなく、今のままで「全てを既に手に入れている」ことを認めたい。しかし「そのために何かをしてはいけない」とすれば、あなたは途方に暮れてしまうでしょう。
結構です。ここまで読んだだけで、あなたの認識が即座に変更されるとは思っていません。
それを認めるためには、それを裏付ける現象化が必要です。納得のいくように現実が現象化していけば、あなたはいずれそれを認めざるを得なくなります。
では、その現象化を促進するメソッドを紹介します。
メソッドと言っても、第二章でご紹介したものとは根本的に異なります。
第二章のメソッドは、いわばエゴの内部にいながら別の領域を利用するためのメソッドでした。そのために、別の領域の見解を積極的に採用することが必要でした。
しかし、ここまで読み進めたあなたは、既に新たな認識を得ているはずです。
その認識は、あなたをエゴの内部にとどめません。
これから紹介するメソッドは、別の領域において、単にその領域の見解を述べ
るということになります。
そのメソッドとは、そのものズバリの実に簡単な方法です。
それは単に、あるひとつの見解を採用し続けるというものです。
それは、こういったものです。
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
今までのあなたは、これらを強力に関連づけていました。すなわち、
「私は、こうこうこういった条件を満たしていないから、喜びを感じてはいけない」
「私は正しき思考習慣を行っていないので、願望を実現できるわけがない」「私は不快な感情を感じているので、幸せを感じる現実の現象化があるはずがない」「なぜなら、自分はうまくできていないのだから」
こういった条件付けを一切取っ払う、ということです。
あなたがうまくできていようがいまいが、それとまったく関係なく、あらゆる願望実現や幸せは既にあなたのものなのです。
「あなたがここにいる」ということは、それらを手にする条件は全て整っているということです。
新たに条件を追加する必要など、全くないのです。
パンの話を思い出してください。最初から既に手に入れているものを、新たに手に入れることは出来ません。
あなたは、ただ単にそれを受け入れ、認めるだけで良いのです。
あなたが何かを手に入れたいと考えたとき、従来の思考習慣が働き始めたら、
即座にストップしてください。そしてこう考えます。
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
このように、あなたの抱えている状況や感じている感情、保持し続けている思
考習慣や行動パターン等と一切関係なく、あなたは幸せであって良いのです。
なぜなら、それらは既にあなたのものだからです。
ところがあなたはこのように考えます。
「私は、いまだ不都合な思考習慣を捨て切れていない。したがって、これを払拭して、完全に好都合な思考習慣に100 %切り替わるまで、願望の実現を延期することにする」
「私は、望むように現実が現象化するような感情的態度を、充分とっていたとは言えない。だから、それが完璧に出来るようになるまで、幸せな現実の現象化を自分に許さない」
「私は今日、ある人物を大変傷つけてしまった。ここ数週間はうまくやってきたのだが、今現在、これによって私は罪悪感を感じてしまっている。全ておじゃんだ。
願望の実現はすぐそこまで来ていたのかもしれないが、リセットされてしまった。
また一からやり直すとしよう」
あなたが意識していようが、無意識の領域で行われていようが関係ありません。
あなたの内部で起きていることはこのようなことなのです。
このような関連づけを行っている以上、その範囲であなたが許した以上のことは、決して起こりません。
あなたが自分について考えていることと、あなたが幸せを感じられるかどうか は、全く無関係です。
たとえ罪悪感を感じていても、それをあなたの願望実現と関連させないでください。
たとえ不適切な思考習慣を持っていると感じていても、それを「あなたが幸せで良いかどうか」ということに、結びつけないでください。
たとえ「自分は不味い行いをした」と思っていたとしても、それを「あなたが至福の喜びを感じて良いかどうか」と接続させないでください。
たとえあなたの内面(思考・感情・思いこみ・観念)や外面(態度・振る舞い・行動)がどうあろうと、「私は幸せであって構わない」と、大胆に許可してください。
常に許可してください。その心的態度を持ち続けることです。
そうすることで、あなたは他の人に対しても、その人の行いと彼の幸福とを関連づける必要がなくなってきます。
これであなたの中から、現実世界に対する「理不尽さ」という属性が解消されます。
全ては関連していなかったのだ、という重大な気づきが起こります。
あなたはあらゆる思考や感情や観念から自由になります。
そして、あなたが自分自身をどういう状態だと認識していようが、それとは無関係に「実際に幸福な現実を体験する」ことに許可を与えられるようになります。
もうあなたを追い詰めたり、急きたてたりするものは何もなくなります。
ほっと一息ついてください。
エゴの無益なゲームは終了しました。
おめでとうございます。
本当にお疲れ様でした。
あなたは今後、幸せを体験することだけに没頭すればいいのです。
それはワクワクする、疲れを知らない楽しいゲームです。
そのゲームは、一体どんな風に展開していくのでしょう。
あなたは安心してこのゲームを楽しんでいます。
安心しているので、安心を感じられる現実が現象化してきます。
あなたはさかんにワクワクするようになるでしょう。
そして、よりワクワクする状況が、あなたの眼前に現れてきます。
あなたは常に満たされているように感じるでしょう。
そして、次々と満足を経験するような出来事が起きてきます。
あなたはいつも愛を感じている状態になります。
そして、愛を感じざるを得ない日常が展開されていきます。
別の領域では、もはや願望という形を保持するのが難しいのです。
なぜなら、それを抱いた途端に「もう既にある」ということを知ることになるからです。
あなたの現実は半自動化されます。それは常に「起きてくる」という形で現れ てきます。
何かをしたからこうなった、という「屁理屈」の範囲外で起きていることだからです。
そういった関連づけが不可能なことが、次々と起きてくることでしょう。
「私は常に満たされていたのだ。しかし今まではそれを許していなかったので、それを見ることが出来なかったのだ」
あなたはそんな感想を洩らすことでしょう。結果あなたは、今までは思いもよらなかったこの突拍子もない解釈を、採用せざるを得なくなります。
あなたの望む現実は、もう既にここにあるのです。
どこか遠いところにあるのではなく、ここにあるのです。
どこか遠い未来にあるのではなく、今ここにあるのです。
あなたは今まで、それを見ることを自分に許してきませんでした。
「まだ、ここに存在してもらっては困る」
というように。
でも、この無駄な解釈を取り下げるときが来ました。
あなたは、それを許すだけで良いのです。それが現れてきます。
あなたは、それに目を向けるだけで良いのです。それが見えてきます。
必要なのは、単なる「意図」です。
強力な意志ではなく、なんの力も入っていない、単なる「意図」です。
「ここにあるものを見よう」という、単純な意図だけなのです。
どうぞ、台所に一杯水を飲みに行くようにして、それを見てください。
それを敢えて難しいことにしてしまわないで、簡単なことのまま、そうしてください。
あなたが「それは簡単なことだ」という明晰な認識を持つということは、本当
の視点から現実を認識しているということです。
それは頑張って創り出すものでも、どこかから引き寄せるものでも、内面を大掃除しないと受け入れることが出来ないものでもなかったのです。
ただ、見てください。
誰かに呼ばれて、後ろを振り返るときのような気軽さで、それを見てください。
それは、そこにあります。
*
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
「私は何をしていようがいまいが、最高の喜びを実感して良い」「私は何を考えていようがいまいが、願望を実現して良い」「私が何を感じていようがいまいが、幸せを存分に受け取って良い」
「手に入れる必要はない。それらは既にあるのだ。私が今まで何を考えてきたか、何をしてきたか、何を感じてきたということとは全く無関係に、私はそれを得ている。それを認識して良いのだ。だから、それを認めよう」
「今この瞬間、私が何を考えているか、何を感じているかとは関係なく、私はそれを既に得ている。だから、それを感じよう」
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